研究会に寄せて
鈴木憲夫
 この度は、大変光栄な得難い機会を与えて頂き心より嬉しく感謝申し上げます。これまでこの研究会にご登場をされた=私からみれば=大先輩、大先生方の末席に加えて頂きましたこと、未だ拙々たる身を憂いている者としましては感動さえ覚えます。

 作曲の生活に入りましてから25年になろうとしています。その折々それなりに精一杯に来してきたつもりではいましても、こうして作品を羅列致しますと何やら閑散とした思いに駆られるのは凡愚たるを免れぬ所以ゆえんでしょう。しかし、まるでアルバムでも見るように、どの作品にもその時々の私がおります。

 昔、作曲で生きようと思い立った時の私には、ただ力まかせの若さと掬(すく)きれぬほどの希望と、勿論同じくらいの不安と、それと将来を想えば暗雲の相のもと、私を信じ共に生きようとしてくれた家内だけが在りました。そして辿々(たどたど)しくも一途に歩き続けているうちに、少しづつ、本当に少しづつ作品も出来、楽譜も人の目に手に触れ、それを演奏して下さる方、聴いて下さる方など、多くの方々とのご縁も次第に膨らむように出来て参りました。そしてついに今回、辻先生をはじめTCFの皆さまと出会うことになったわけです。

 私の若い頃の視線はどちらかというとオーケストラや器楽にありました。いくつかの作品を書き、合唱曲も書き始め、出口のない森を歩くような危うさの中で、いつしか切実に「私でしか書けないもの」を、と、まるで念じるように思い始めました。個性とは他とは違う自分を主張するのではなく、実は多くを他と共有する中で自然に発露するものなのであろう、とはいつしか感じたことです。
 私の音楽の道は独学独歩に近いものでした。しかし、その時折々に、友人、先輩、先生方との絶妙なる出会いが私をここまで来たらしめました。「青雲の志」とはやや気張った言い方ではありますが、私はやはり音楽が好きで、若い頃、それも十代の時に描いたイデーを未だに追い求めているようにも思います。まだ青雲の丘を遥かに眺むところに居る心持ちでおります。そのイデーとは勿論音楽そのものではありますが、実はその低層に、人間というもの、そして天地自然、更には神という対象への興味、憧れがあることを歳を経る毎に思い知るようになってきております。

 私などが成そうとしていることはまさに「一灯照隅(いっとうしょうぐう)」、わずかな灯火(ともしび)を世の隅で照らしているようなものです。ですが、そんな小さなことから全ては始まるのではないかと、そんなことを最近思っています。

 「菜根譚(さいこんたん)」の中に「人を看みるに只後(ただのち)の半截(はんせつ)を看よ」という言葉があります。半截とは半生のことです。「人の一生を評価するには、ただ後の半生をみるだけでよい」という意味です。
 この度の「研究会」ではこれまでの自分というものを振り返る機会を頂きました。このことを心に刻みまして、人間として作家として、私なりのこれから、まさしく後の半截に思いを馳せようと思っています。

 この度の企画がどんなにか音楽を共通として、同時代に生きることを確認することの標しるべとなることか。辻先生はじめ、多くのお手間を煩わした関係皆さまにお礼を申し上げるとともに、このことを、この場を共有できたことを皆さまと共に喜びたいと思います。