年 譜
<この年譜は2001年10月、指揮者の辻正行先生主宰のTCFにおいて「鈴木憲夫作品研究会の資料として作成されたものです。>
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1953年(昭和28年)5月3日、宮城県多賀城市在七ヶ浜町に鈴木源治・のぶ子の長男として生まれる。間もなく塩竈市に転居。’59年、仙台市に転居。
1960年(昭和35年)7歳

仙台市立南小泉小学校に入学。1年中途で東仙台小学校に転校。小学4年の頃、叔父より買ってもらったピアニカ(鍵盤ハーモニカ)を器用に吹くことを覚え、手当たり次第耳にする音楽を吹いた記憶がある。高学年時には放送部に所属し、昼休みにラヂオで流す選曲は私好みで押切り、皆のひんしゅくを買ったこともあった。手近にあったギターにも親しみ、その頃からいたずらながらも音符を書こうとする。
1966年(昭和41年)13歳
東北学院中学校に入学。入学と同時に受験のためにしばし猶予していたヴァイオリンを藤倉栄子先生の許で正式に始める。吹奏楽部に入部。フルートを手習う。面白がって書いていた音符もいつしか弦楽四重奏などと仰々しいものになり、中味といえば大変お粗末ながらも取り組む好奇だけは旺盛だったようだ。学校が仙台市の中心に位置していただけに、帰り道は「ヤマハ通い」の常連となり、手当たり次第にオーケストラスコアやレコードを集め始める。ピアノのある近所の家にいりびたること甚だしく、苦情の末、到頭中古のピアノが我が家に登場する。同時に藤倉先生の妹さんの道子先生にピアノのてほどきを受ける。中学時代はピアノ小品や「ヴァイオリンとピアノのための小品」などを習作する。藤倉先生にヴァイオリンを弾いて頂き、私がピアノ伴奏する、などというレッスンもあった。「あなたは誰にもないものを持っているのヨ・・・・」と、そんな先生の言葉に励まされ(調子づき)、以後も作曲の真似事を続けることになる。先生はその後しばらくして出家・仏門に入られ、現在も尚汎きに亘り格別の誼みを賜っている。
1969年(昭和44年)16歳
中・高一環教育の学校だったためにそのまま東北学院高等学校に入学。音楽熱はいよいよ高まり、友人とギター部を作り、吹奏楽部では指揮をやり、また放送部ではラヂオドラマなどを制作する。また仙台市内の高校生を中心にしたユースシンフォニーオーケストラの創設に参加、コンサートマスターも務める。仙台市民交響楽団にも入団、その頃からコンサートなどにも出演するようになる。高校1年の終わり頃から今井邦男先生に和声学、ソルフェージュなどを師事し音楽大学を意識しての勉強を開始する・・・・だがどちらかといえばむしろ好き勝手に音楽することに夢中になっていたようだ。その頃はピアノ曲の習作や、オーケストラの作品まで手を伸ばそうとしている。高3の時に初めて書いた合唱曲「こころ」が旺文社学芸コンクールにて高校部門第1席を頂戴する。その時の審査員であった團伊玖磨先生と知遇を得ることでその後の私の方針も次第に変わって行くことになる。
1972年(昭和47年)19歳
音大受験はせずに東北学院大学法律学部法律学科に入学。入学してより本格的な作曲の勉強に入る。團先生からの紹介で浦和の土肥泰先生のお宅に3カ月に2度程度の割合で対位法、その他作曲に関する勉強を師事し仙台より上京を重ねることになる。大学1年、管弦楽曲「交響的断章」、3年の時に作曲した「オーケストラのためのコンポジション」はいづれも前記の旺文社のコンクール(社会人の部)で1席を頂く。その他に歌曲の作曲、また大学3年の時、後に私の作品で初めて世に出ることになる「永訣の朝」を作曲。大学時代は兎に角忙しかったことを覚えている。仙台NHK放送合唱団にも所属しベースを歌い、市内の2.3のオーケストラのコンサートマスターを同時に掛け持ちをしたこともあり、また地元放送局、東北放送でCMの作曲、新体操のための作曲、更に高校生、大学生を中心にしたコーラスグループ「コール・ユーゲント」の指揮など、当時いろいろな経験をしたことは今は懐かしい思い出だ。大学での法律の勉強は当然のことながらそこそこに、むしろ市内にあった宮城教育大学の音楽科に入り浸っていた。新任の先生は私がモグリの学生だったことを半年以上も知らないでいたこともあった。時には研究室に泊まり込んだこともあった。当時、家で音楽をすることは禁忌になっており、家での作曲は主に夜遅く、弱音ペダルを用いながらのものだった。「永訣の朝」のラスト近く、アルトのソリのところなど今でも聴く度に当時の事が不思議とまざまざと甦ってくる。
74年、作曲の友人3人と「作曲四人展」を開催。習作「弦楽四重奏のための一章」や合唱小品を発表。大学時代には他の様々なこと(例えば子供時代から入っていたボーイスカウトの隊長もやっていた・・・など)を経験できた。音大に行かない分、おそらく音大で勉強しているであろう同輩に負けじ、という気負いも多分にあったに違いない。事実、たくさんの曲のスコアリーデイングもしたし、アナリーゼもやった。このことを思う時、その時でしかできないたくさんのことを学びもし、得難い時期を過ごしたという思いを今深くしている。
1975年(昭和50年)22歳
東北学院大学卒業。2月、改訂版「永訣の朝」が第一回日本合唱指揮者協会主催の創作曲公募で入選をし、関屋晋先生の指揮、松原混声合唱団・湘南市民コールの皆さんの演奏で東京で発表される。卒業後、しばらくの間、学生時代から関係のあった当時まだ活動を開始したばかりの宮城フィルハーモニー管弦楽団(現仙台フィルハーモニー)のヴィオラ奏者、編曲者、また練習時には一時期指揮もするなど、県内各地での音楽鑑賞教室の巡回に従事することになる。
1976年(昭和51年)23歳
山田一雄先生の許で指揮を学ぶため横浜・根岸のお宅に通い始める。以後10年余に及ぶ
1977年(昭和52年)24歳
上京。東京音楽大学作曲科研究科に聴講生として在籍する。当時の学長伊福部昭先生は私の憧れの存在だった。大学時代作曲した習作を脇に抱え、思い切って先生の門を叩き、先生の許で勉強する許しを得られる。約2年間はまさに「目のウロコが落ちる」といっていいほど充実した研鑽の時期を得る。また伊福部先生のお墨付きのもとで私が勉強したいと思う講義に自由に出席することを許して下さった。そのお陰で管弦楽法の池野成先生、また松村禎三先生のゼミにも参加することができた。そのように自由に勉強させていただいたことがどれほど当時の私にとってかけがいのないものだったか、更に当時、勉強のひとつの区切りとしてオーケストラの作品「シンフォニエッタ」を作曲していた。上京してまだ間がなく、ピアノもなく全てに困窮していた時、先生のゼミの部屋を好きに使わせて頂いたこともあった。また貴重な欲しくとも買えないスコアを惜しみなく貸しても下さった。伊福部先生には今も尚感謝の念は尽きない。前年より学び始めた山田一雄先生のもとでは指揮法を学ぶというより、「音楽」というものを広く学んだ気がする。楽譜に書かれた音をどのように表現するか、それは一面を反えせば、書き手側の問題にも通じ、現在も尚、時々に先生の言を噛みしめることは多い。以後、数年に亘り、先生の後をついてカバン持ち(?)をさせて頂いたことも得難い経験だと思っている。
8月、オーケストラのための「シンフォニエッタ’77」を作曲。
11月、桑折美智子と結婚。
1978年(昭和53年)25歳
東京音楽大学の聴講2年目。聴講生は1年限。なのに月謝も払わずに2年目もお目こぼし頂いた(もう時効?)。伊福部先生の言「結婚して生活も大変だろうから勉強したかったら構わずいらっしゃい」・・・・と。兎に角ふけた学生だった。いつだったか校門をくぐる時、守衛さんが私を「先生」と見間違えたものか、お辞儀をされたこともあった。私自身の卒業作品というべき「シンフォニエッタ」は私にとって大きな転機となる作品となった。これを書いたことによりそれまでの研鑽の対象だった「西欧アカデミズム」より少しづつ脱皮しようと試み始める。
5月、マリンバとピアノのための「ラプソデイックダンス」を作曲。
しかしその後しばし音楽そのものの勉強は中断、むしろ他のジャンル、例えば美術、建築、比較人類文化学、そして日本的なものとは?・・・などというものに憑かれるように関心を持った。それらを通して「目窓」を開こうと夢中であった。この年、校歌などの編曲を主にする目的で「青年作曲家評議会」を設立。以後93年に閉じるまでに約500曲近い編曲をする。
1979年(昭和54年)26歳
11月、「プロムナード・コンサート」を主宰(芝の増上寺ホール)。その頃、團先生のオペラの稽古場へ同行させて頂いたり、伊福部先生の映画音楽録音、コンサートのリハーサルの立会いを許されたり、机上では得ることのできない実際の場を見せて頂いたことは、若い心の内に薫風を得た思いだった。
1980年(昭和55年)27歳
(社)日本作曲家協会に入会。(’85年ころより各委員を務める=02年に退会)同協会主催の合唱音楽会において「永訣の朝」を指揮(演奏/二期会合唱団)。カワイ出版の編集の松野満男氏と出会う。以後、同社より刊行されるその殆どを担当して頂くことになる。
8月、ピアノと打楽器と管楽器のための「殯=MOGARI=」を作曲。アカデミックな手法に依らない独自を目指そうとした最初の作品。10月/11月と「プロムナード.コンサートII」を主宰し東京・仙台在住の作曲家とともに東京、仙台とで開催。「殯=MOGARI=」を指揮する。
1981年(昭和56年)28歳
’78年頃より取り組んでいた混声合唱曲「地蔵礼讃」じぞうらいさん完成。翌年に日本合唱協会の演奏、自身の指揮で初演(’84年に出版)。この作品で初めてテキストを自分で作る。以後も続けていくわけだが、言葉を伴う合唱というジャンルで、漠然とした音楽的欲求に対して、自分で詩を書くという作業は困難であるけれども私には必然なことだった。しかし、具体的なイメージを言葉によって表現する作業はまた作曲以上の労苦を伴うことも同時に以後幾度も痛感することになる。
この年より新座交響楽団の常任指揮者を務める(〜85年まで)。年に一度の定期演奏会ではBeethoven など古典を指揮する。
1982年(昭和57年)29歳
カワイ出版より「永訣の朝」刊行。はじめての出版物となる。6月、「シンフォニエッタ’77」(演奏/東京シテイフィル)を指揮する。9月に民音指揮者コンクールに参加。予選は通過し本選前で脱落するも新星交響楽団でラヴェルの「スペイン狂詩曲」、日本フィルではシベリウスの「交響曲2番1楽章」を指揮できたことは得難い経験だった。12月、与野市鈴谷に転居(現さいたま市)。
1983年(昭和58年)30歳/この頃より少しづつ女声合唱曲を書き始める。2月、女声合唱曲「ねんねんねっころやまのネムの花」作曲など、その後それらは「抒情小曲集」としてまとめられることになる。
1984年(昭和59年)31歳
この年以降数年に亘り独協医大学管弦楽団を客演指揮する。その他にも多々のアンサンブル等の指揮をする機会を持つが、徐々に指揮者としての場は減少していくことになる。
1986年(昭和61年)33歳
当時、作曲依頼の少ない中ながら、ピアノの小品を書いたり(こどものためのピアノ曲集「小さなアルバム」)、また次作になる「祈祷天頌」きとうてんしょうのテキストの作成と作曲のため(縄文をテーマ)、遺跡を歩いたり資料を検証したり、と、時間が多くあった分、自身の作品に対しての思索を深める時を得たことは仕事も生活も苦しかった反面、与えられるべくして得た機会と今振り返りみて感慨を深くしている。
1987年(昭和62年)34歳
10月、混声合唱曲「祈祷天頌」作曲。この作品も「地蔵礼讃」同様に自身で詩を書き完成まで5年近くの月日を投じる。この作品を機にこれまでの一連の作品をも振り返りながら、自身のライフ・ワークのテーマが「祈り」というものであることに意識を持つようになる。この作品はある青年が私の前に現れなかったら完成までには多分もっと時間がかかっていただろうと思う。谷道明君、ー当時関西大学の学生だったー彼が私の家に訪ねてみえた時に(この小冊子に彼も一文を寄せてくれた)、「先生、今何作ってはるんですか?」、に私は作曲半ばだった「祈祷天頌」の一部をピアノで弾いた。それがいつ完成するか、どこで初演が成るかはまだ未定だと私が言うと、「それ、私たちにやらせて下さい」と。その一言が私の肩をポンと叩いた。彼も含めて当時学生だった彼等と、今でも交流が絶えずにいることは嬉しいことと思っている。
1988年(昭和63年)35歳
数年来少しづつまとめてきた「リズム」に関したエチュードをまとめた「リズムに強くなるソルフェージュ」全2巻(東京音楽社=ショパン)を上梓する。この年、というわけではないが、その頃より私の作品に耳を傾けて下さる方もちょいちょいと出始めた頃、私はそういう人、人たちのために音楽を書きたい、と、おぼろげながら自身で思い至るようになったことを今思い起こしている。
1989年(平成元年)36歳
キングレコードより日本合唱名曲シリーズに作品集が収められる。レコーデイングのために半年以上も与野市で活動する「よのコーラス」の皆さんにお付き合い頂いた。そのCD完成祝いと「抒情小曲集」「民話」同時刊行「記念コンサート」をよのコーラスの皆さんによって開いて頂く。その感謝の気持ちで「めぐりあいの中に」を作詩・作曲する。
1990年(平成2年)37歳
この頃より、自作を指揮する機会も少しづつ増えてくる。12月、改訂来あまり耳にすることのなかった作品「地蔵礼讃」を関西大学ひびきの演奏で聴く。作曲当時、どこでいつ演奏されるか分からないままに書いた作品を聴きながら伊福部昭先生の声が聞こえるようだった。「書いていればいつか必ず音にし聴くことができるのだから」と。若い時、書いたものがなかなか音にならない若さ故のジレンマに先生が諭すようにお話し下さったことだ。
1991年(平成3年)38歳
2月、新潟冬の国体(入場行進曲を作曲)。12月に韓国ソウルで亜細亜基督人作曲家連盟の招聘で作品コンサート開催のため家内共々訪韓。東京音楽大学時代、机を並べた韓国からの聴講生・黄哲益さんが帰国後会長をされた会の催しで、当時日本の作品がまだ解禁されないでいた時期、音楽を通じて多くの方々との交流を深めた。フィリッピンでのアジア太平洋地域音楽祭にフルートソロのための「笛吹き女め」を出品。
1992年(平成4年)39歳
8月、日韓音楽家交流コンサート「音・人・出逢い」実行委員長を務める。韓国より作曲家・演奏家5人を招聘。プロデユース、資金調達、また諸機関への働き掛けに奔走する。
1993年(平成5年)40歳
ほぼ3年がかりでまとめた「総合ソルフェージュ」全2巻(カワイ出版)を上梓。四国夏の国体、高松市/鳴門開催の入場行進曲を担当。この年より2年の任期で埼玉県「彩の国文化懇話会」の委員を務める。
1994年(平成6年)41歳
(財)与野市ふるさと振興機構の設立準備委員を経て評議員を務める(01年まで)。埼玉県立近代美術館友の会「fam's」の理事を務める(現在に至る)。広報誌「ファムス通信」において以後、池田満寿男氏、黒川紀章氏、横尾龍彦氏らと対談をする(〜2000年まで)。8月、宮澤賢治のご次弟清六氏と初めてお目にかかる。「永訣〜」の作曲来、ささやかながら文通を通しての交流を続けさせて頂いたが、お宅の仏壇で賢治さんトシ子さんの位牌に手を合わせ、20分程度のお約束が3時間余りにもおよび、当時92歳の清六翁の真実なるものへの謙虚で真摯なお姿、まさにそこに賢治さんを見る思いがした。お話を伺いながら霊妙なるものが体中に奔る思いがしたのは、単に私が緊張していたせいだったのか。賢治さんのこと仏教のこと作家というもの・・・尽きないお話しは今も忘れ難いものになっている。
         賢治さんの生家にて
1995年(平成7年)42歳
12月、タイのバンコクでのアジア音楽祭に参加、吹奏楽のための「シンフォニック・ラプソデイ」が演奏される。約1週間の開催中、様々なレクチャーをサボタージュし、ひとりバンコク市内を歩いて廻る。馴染み(?)のレストランをつくり、Menu の上から順にタイ料理をことごとく食する。
1996年(平成8年)43歳
この年の4月、女声合唱団「コール・ベル」発足(市川市)。以来、自作品が中心になるが活動を開始する。5月頃より「雨ニモマケズ」の作曲を始める。宮澤賢治の「永訣の朝」に作曲してから20年余を経、賢治という大きな鏡の前に改めて映し出される自分というものを感じた。4月には幾度目かの花巻訪問をする。「永訣〜」来の友人、澤口正一さん、地元の押切さんにご案内頂き、賢治の墓参、またゆかりの方々にお話を聞く。作曲する前にはいろいろなプランがあったのだったが、いざ作曲を始めると、技を弄することの愚を思い知らされ、次第次第に余分なものが削がれるような思いを経験をする。              
1997年(平成9年)44歳
4月、郷里多賀城市で有志の方々による地元の合唱団合同演奏で「永訣の朝」を指揮する。友人、知人、さらに親戚の前で20数年前に作曲した「永訣〜」を指揮したわけだが、20年余を経て、改めて、という思いながらその当時の自分の「声」を多くの人に聴いてもらったような深い感慨を持った。またこの年、全日本合唱普及会(代表/岩田一夫)・BMGジャパン制作による「新・合唱講座ージュニア版ー」に携わる。プロデユースの岩田さんとの出会いにより、以後、小・中高生を意識した作品を書く機会を得ることになる。(「地球に寄り添って」ーセンスオブワンダーなど)
1998年(平成10年)45歳
11月、中国・長沙方面に旅行。母、叔母と三人で戦死した母の長兄の足跡をたどる。観光地ではない奥地(?)までも足を踏み入れ、中国という国の広さ、歴史の深さに思いを馳せながら人々の生活に接し、人というもの、生きるということ、天諭と言うには憚ること甚だしいが心に記すること大であった。
1999年(平成11年)46歳
4月、仙台の郊外・松島にほど近い利府町に仕事場を設ける。視界の半分以上が空と雲、そして宮城蔵王連峰が彼方に望まれる小さな小屋に、以後、月に2週間ほど籠る生活をすることになる。音楽之友社・全日本合唱普及会制作の「21世紀の合唱名曲選」に携わる。
2000年(平成12年)47歳
諏訪混声合唱団のための新作「永久に=トコシナニ=」の作曲に従事。自身でのテキスト作成のためにこれも足かけ3年になろうとしている。完成は2001年4月の予定。11月、カンタータ「さいたま・さちあり」のソウル公演(演奏はソウルナショナルシンフォニーオーケストラ、合唱/埼玉第九合唱団、指揮/宮寺勇)のため母と連れ立って訪韓。
2001年(平成13年)48歳/
9月に
「二度とない人生だから」全曲完成。10月、辻正行先生ご指導のTCF(東京近辺はもとより宇都宮、遠くは広島からも全部で16団体の合唱団が参加)で「鈴木憲夫作品研究会」が催される。女声作品の大部分がそこで演奏された。午前から夕方まで全て私の作品で埋め尽くされたわけだが、大きな節目を頂いたような気がした。こうした企画を立てられた辻先生の実行力、そしてスタッフも皆さんの熱心さに心から感謝する。11月、あしかけ3年以上自身で詩を書いた「永久ニ」が諏訪合唱団によって初演される。
2002年(平成14年)49歳/
ユニバーサルと全日本合唱普及会の企画「ジユニアコーラス全集」に携わる。「小さな神様」子供ミュージカル「スターチャイルド」などを作曲。録音のために広島、山形、旭川などに赴く。7月、昨年作曲した「二度とない人生だから」が京都で初演される。
1月よりHP開設。
2003年(平成15年)50歳/
前年作曲の「明日へのマーチ(詩:片岡輝)」6月指揮・初演。3月作曲の「風の島(くに)唄」は7月の合唱セミナーで発表。女声合唱曲「愛にささぐ」(全6曲)完成=10月宮崎初演・同時刊行。楽譜の刊行は1月編曲集「クラシック小品集」、4月混声版「みすゞこのみち」、5月「ジュニアコーラス全集」=CD楽譜付き(ユニバーサル&全日本合唱普及会)、11月、女声合唱組曲「小さな神さま」など。
他に客演指揮として東京近県をはじめとして、鹿児島、宮崎、長野、福島などの地に赴く。
3才の頃
小学校4年生の頃
高等学校の頃、ブラスの指揮をしているところ。
高3の時、團伊玖磨先生と。授賞式で。
仙台市ユースシンフォニーオーケストラのコンサートマスター時代。
子供の頃からの憧れだった伊福部昭先生と。
ステ・マネなどもやった。
上京して2度目の借家で。
新座交響楽団指揮者時代。
テニス。
よのコーラスと初のレコーデイングに臨む。キングスタジオで。
新潟冬の国体入場式。吹雪のなかで。
池田満寿夫氏と。この2年後、亡くなられた。
1995年、タイの寺院で。
仙台/利府の仕事部屋
から見える夕陽。