慈眼視衆生ーじげんししゅじょうー
 慈眼視衆生とは「慈しみの眼をもって衆生(世の中・人も含めて)を視(み)る」という意味です。
 この掛け軸は私の子供の頃からのヴァイオリンの恩師、藤倉良栄先生からいただいたものです。先生は50歳を過ぎ突如として出家されました。中国の天童寺という寺に行かれた時、寺のお坊さんが書いておられたこの「字」を見てすぐに私のことを思い浮かべて下さったということです。

 出家されてからほぼ十年は消息を知ることはできませんでした。あえて私も尋ねることはしませんでした。その後、先生は修行を重ねられ、現在は宇治に庵を結んでおいでです。先生と手紙などの往来が復活したのはここ数年のことです。

 この4月に宇治に先生の庵を初めて訪ねました。本当に不思議なご縁です。音楽という、しかも師弟という以前に深い仏縁さえ感じます。私が子供の頃の先生のレッスンは大変厳しいものでした。しかし私の作曲を最初に褒めて下さったのは藤倉先生です。年譜にも記しましたが、私の未熟な作品を私がピアノで弾き先生がヴァイオリンを弾いて下さる、というレッスンもありました。その都度先生はこう言って下さったのです。「憲夫君は誰にも持ってないものを持ってるのよ」と。私が子供の頃から才能が秀でていた、などとここで申すつもりはありません。ただ、こうした先生がいらして今の私があり、そして宗教、人生全般を語り合える師がある、ということは幸せなことだと思っています。

 京都などで私の作品の演奏会がある時は都合のつくかぎり来て下さっています。先生からお教えいただいた「唯識論」をこの夏から勉強しています。来年、先生のお住まいのある宇治で私の「永久ニ」が演奏されると聞いています。それもきっと先生がコッソリと私の作品を紹介して下さったに違いありません。

「慈眼視衆生」、この言葉は今や私にとって血肉同然の言葉となりました。                    02/11.28

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修行をされた福井県寶慶寺にて。
昨年、先生が上京された折りの写真。