「子産み石」團伊玖磨先生の思い出ー
 ある時・・・もう15年ほど昔のことです・・・友人から電話がありました。
「團伊玖磨先生の<パイプのけむり>で<子産み石>ってあったんだけど知ってる?」。
 それは丸いおよそソフトボール大の石で、これを撫でると子供が授かると昔から言われているとのこと。(上写真)
 早速、團先生にお電話でそのことをお尋ねしたところ「差し上げるからいらっしゃい」と、気さくにお声をかけて下さいました。

 團伊玖磨先生に初めてお目にかかったのは私が高校3年の時、高校卒業を間近に控えた1月15日のこと。旺文社の学芸コンクール音楽部門・高校生の部で幸運にも第一席を頂戴し、團先生はその審査員を務められていたのでした。その授賞式の日、憧れの團先生の前に立った時、若い私は地に足がつかないほど緊張したことを覚えています。

 当時、東北学院大学法律学科への進学が決まっていました。しかし、私には音楽の道を進みたいという希望がありました。おそらく、先生との初めての会話の中でそんなやりとりがあったのだと思います。なにせ、緊張していたものですから、細かなことは今でもその部分、記憶喪失状態です。

 團先生との出逢いにより、私の音楽家への道はそれから一歩、足が前に進んだかたちになりました。まず諸井三郎先生の許での勉強を薦めて下さいました。しかし、その頃、諸井先生は体調を悪くされており(その後、お亡くなりになりました)、結局、團先生のお弟子にあたる浦和の土肥泰先生(故人)のお宅へ通うことになりました。仙台から通うことになりますので、少しでも近い方が良いだろうということで。
しかも、土肥先生には「学生だからレッスン料は安くして」との口添えまでいただき、ワンレッスン3.000円という格安(ちょっと不謹慎)で対位法、アナリーゼ、和声楽など作曲の基礎となる勉強をご指導していただきました。大学時代、2ヶ月に3度くらいのペースでそれから上京を重ねることになります。

 仙台を出、東京音楽大学の研究科に在籍するようになってからも、團先生の折々のオペラ公演のための練習にお供を許して下さったり、作品についてのご高評をいただいたり、近しく、と言うと口憚ったいのですが、大変お世話になりました。
 また忘れられないことは、先生が仙台に講演にお出でになった時、当時、大学を中退をし、音大に入り直そうかと真剣に悩んでいた時、私にこういうことを話して下さったことです。「君は若いのだから広く世界を見て、広く勉強なさい。音楽しか分からないような人間ではつまらないですよ」と。
根が単純なものですから、そこからまた新しい私の勉強が始まったような気がしています。

「子産み石」は先生の奥さまがわざわざ地元の漁師さんに頼んでご用意下さったとか。團先生、そして奥さまも今は亡く、いろいろな先生との、そして奥さまの思い出と共にこの子産み石は先生の形見となってしまいました。
 昔、寝室にあったこの石はご利益にあずかることはなく、今はお守りとして仕事部屋に鎮座奉ってあります。
 またもうひとつ團先生との思い出の宝物、それは先生自筆のオペラ「夕鶴」のスコアコピー。

 私はプロフィールで、師事した先生の欄に團伊玖磨先生のお名は記していません。それは不肖ゆえに、かつ弟子を名乗ることに不遜を覚えるからです。かつて團先生は山田耕筰先生を師と仰ぎながら、師事をした、という言い方をされませんでした。それにあやかるつもりはありませんが、私の内での團先生は、いつまでも私の前を歩んでいる存在でもあるのです。    03.2.21

さよならパイプのけむり最終貢写真より

團 伊玖磨先生 
2001年5月17日、中国蘇州市にて召天

              
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