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私は指揮が好きです。「好き」という漢字、これは「女の子」と書くのですね。どうしてでしょ?今気付きました。(・・・最初から脱線・・・?) ところで指揮の話しですが、私は子供の頃から作曲はもちろん、指揮にも憧れていました。HP上の私の年譜また「めぐりあいの中」でしばしばご紹介している子供の頃からのViolineの師・藤倉栄子先生に、ある時、Violineで音大に行きたい旨をご相談したことがありました。その時先生は「男の人が音楽やるなら作曲か指揮よ」と。当時、自己流に作曲もし、また後述しますが指揮もしていましたので、それで意を強くしたことを覚えています。 ー多分に若い「芽」は太陽に向かって背伸びをしたがるものです。ー 中学の頃は吹奏楽部に入りフルートを吹きました。私と同学年のKは私より3ケ月ほど遅く入部したため、ほんの少し先輩の私が手ほどきをすることになりました。 後日、彼は本格的にフルートを習ったのでしたが、私の教えたことが間違いだらけで、それを直すのが大変だった、と、今でも会う毎(40年近く経った今でも)恨みを言われます。 しかし当の私は2年に時に先輩と折りあいが悪く、グレて退部。そして高校2年の時に(私の学校は中学、高校と6年生教育)、次期指揮者がいない、ということで友人K はじめ同級生に口説かれ復帰。そこではじめて念願の指揮をすることになったわけです。 当初は目の上に先輩方もおり、私が「ここをこうして下さい」なんて言うと、「違うんじゃない?」などと切り返しがあったり・・・そこは短気をこらえて、「今に私の天下が来る」とひたすら信じて踏ん張ったのでありました。 先輩方が居なくなるといよいよ私の天下!。練習してない部員がいるとソイツに向かって罵声を浴びせながら指揮棒を投げる。結果、指揮棒は折る。ついに部費からは指揮棒代は出してもらえず、しかたなく、今度は投げることは止め、「敵」の前に行き譜面台を蹴っ飛ばす。その横暴さに流石の同輩も閉口、完全なる独裁者になったのでありました。 私が高校3年生の時に初めて「部」として認められ、県の吹奏楽コンクールに出て、初出場で金賞、しかも最優秀をもらった時は本当に嬉しかった。 大学の時は自身でコーラスを作り指揮をしたこともありました。「コールユーゲント」懐かしい名前です。 私の本格的な指揮の勉強は大学を卒業してからのことです。当時、團伊玖磨先生と面識を得ることができ、指揮を勉強したい旨ご相談しましたら「山田一雄先生」をご紹介下さる言って下さいました。そのお話と時期もほぼ同じ頃、東北大学のオーケストラに山田先生が客演でおいでになるということがありました。 これ幸いとばかりに山田先生に「團先生からご紹介をいただきました鈴木です」と名乗りを上げ、指揮を勉強したい旨をお願いしました。 先生は「いや、聞いてないけど・・・」とスゲない返事。すっかりご紹介いただいたものとこちらは「勇み足」。とにかく「若気」というのは凄いものです。楽団の友人たちと先生が夕食に行くというので、ちゃっかりついて行って、その食事の場でもお願いをしたのでした。 「私は今弟子はとってないの」とおっしゃる先生に向かって畳に頭をつけんばかりにお願いもしました。先生は明らかに困っておいででした。しかしそこは「若気」の一途さ。「指揮を勉強するだけでなく、汎く、先生から音楽を学びたいのです」という私の必死の懇願に、到頭、先生は私に門をくぐることを許して下さったのです。 ただし「3回は続かないと覚悟してネ」と、釘をさされながら。 この日のことは今でも忘れません。同席していたオケのメンバーの友人Yはその後、仙台フィルのコンサートマスターになり、現在ヨーロッパで活躍していますが、彼はそれ以後、私のことを「ズーケン」(図々しいケンプ=学生時代は憲夫の音読みのケンプで通っていましたので=の略)と呼ぶようになりました。 團先生にそのことをご報告したことは言うまでもありませんが、今思えば(今でなくとも)あれだけお忙しい團先生によくあんなお手間をおかけしたことか、と心から申し訳なく、また感謝の気持ちでも一杯です。これも「若気の至り」。 さて山田先生の1回目のレッスン。お宅は横浜根岸。曲はBeethovenの交響曲第1番1楽章。緊張!緊張!で、何やら訳も分からず、先生もこんなにもヒドイとは思わなかったのでしょう。まず私は指揮の勉強の仕方がまるっきり分かっていなかったのです。オーケストラの曲をそのまま楽譜に全部書けるまで準備をしていたのでしたが。その日のレッスンは「もうこの世も終り」という最悪の気分。でも次回もお約束いただいてその3ケ月後に再びお宅へ。そこでもまたもや厳しい指揮の道を思い知らされたのです。ただそこで救いがありました。「基本からやろう」と先生が言って下さったのです。私は先生に基本の手ほどきを受けるには申し訳ないと思い「基本を教えて下さる先生をご紹介下さい」と申し上げたら、「いいからこのままいらっしゃい」と。涙がでるほどに嬉しく思いました。 先生との初めの対面で「3回も続けばよい」とまで言われて決死に近い覚悟で臨んだレッスンでしたが、それ以降、先生のお宅には10年以上も通い続けました。 さらに、時折、先生のカバン持ちをさせていただき、多くの現場を体験させていただいたことは私にとって何よりの刺激と研鑽になりました。 先生から教えていただいたことは指揮に限りませんでした。指揮をする上で楽譜は唯一拠り所となるものです。指揮の面からだけでなく、それは実際に書く側の問題にも多いに通じることでした。 先生はもともと作曲家。汎く音楽というもの、そして音楽家としての先生の姿勢にも近く接し、山田先生からの薫陶はその後の私の音楽家としての歩みにかけがいのないものとなりました。 30代から40にかけて、市民オーケストラや学生のオケで古典、また友人の現代音楽のコンサートで新曲の指揮もしたり、また自作を東京シテイフィル、二期会合唱団、日本合唱協会などで指揮をする機会も得られました。 しかし次第にオケや室内楽の指揮からは遠ざかり、合唱の指揮の機会も増え、最近は自作のみの指揮活動が主になっています。いつまでもキリがないものです。自作のものでも。 指揮をすることで自分の音楽の視野が広くなったことはたしかです。現在は千葉の市川でコール・ベルという合唱団を指揮していますが、実際に女声コーラスを指導していて女声合唱の書き方も変わりました。女声コーラスのエチュード「女声のための43の合唱エチュード」(カワイ刊)もその産物です。 作曲の悶々とした生活に比べて指揮は発散です。私は本番が好きなのです。張りきりすぎて、当の団員の方々は時折面食らうこともあるようですが・・・。 若い頃の「独裁者的指揮ぶり」の「指揮棒を投げる」「怒鳴る」「蹴っ飛ばす」なんてことは、今はまったくなく(それは事実です!)、猫(?)のようにおとなしく優しい指揮ぶりですから、皆さん、どうか「怖がらず」にお気軽にお声をかけて下さい。 尚、タイトルの「指揮棒」の写真ですが、これは父の作です。60才以後、竹で和竿を作ることを趣味としながら、「和竿コンテスト」でグランプリを取るなど、号を「梅源」といい、ちょぼちょぼ竿も売れているとか。指揮棒は私の希望で作ってもらったものです。これまで親しくしていただいている指揮者の方に差し上げたりしています。 03年6月22日 |
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