独り歩きする作品      1983年埼玉新聞掲載。
 つい先日、五年前から書き始めていた作品、混声合唱曲「祈祷天頌」をようやく完成させた。自身で詩を書き、やはり前作の合唱曲「地蔵礼讃」も同様に詩を書き、それも五年がかりのものだった。いつもその牛歩遅々たる仕事に我ながら少々呆れないでもないが、しかし、五年間も私の内でその音楽が鳴り響き持続できたことにむしろ満足を覚えないでもない。作家自身、まず第一番目の聴衆である。だから私は聴衆の立場で、今自分の一番聴きたい音楽を自ら書きたいと思う。とは云っても、一曲に五年もかかってしまうというのは凡夫たる所以、嘆かわしいことだ。
 このような仕事をしていると、よく音楽の才能云々を言われることがある。才能とはどういったものだろう。

 十数年前、私がまだ学生だった頃、私よりはるかに秀れていて才能がありそうな同輩、先輩がたくさんいた。しかし、今だに作曲に執着し、日々悶々としながらもこうして生きているのは私ぐらいかもしれない。私の家族が音楽一家で特別恵まれていたわけでもない。むしろその逆で音楽の勉強は父の機嫌を損なわないようにコソコソとしていたくらいだ。

 今年で作曲生活に入り十年になる。マラソンで云えば競技場を一周して、やっと外に出たというところだろうか。この短い間にも随分と迷いながら、腕をこまねいて何も書けなかったという時期が数度ある。それに勿論のことながら生活のこともあり、道端の花にちょっと目をうばわれるような気安さで、もしかしたら音楽を止めてしまうような機会がこれまでないわけではなかった。一時期、真剣に新聞の求人広告欄に目を通したことがある。しかし、家内がとめた。
「継続は力なり」という諺があるが、その継続こそ大事なのかもしれない。そしてどのように継続できるか、またしていくか、ピーンとアンテナを張りめぐらしていることこそ才能なのだと思う。才能と器用さとは混同しがちだが、でもそれは違うようだ。

 新作の「祈祷天頌」は縄文時代の絵文字を元に、始源的な祈りの中に生命讃歌を謳ったものだ。
 私は縄文土器、それに住居跡などその時代のものを見ると、何かしら無性に駆り立てられるような衝動さえ感じる。もっと云えば血が騒ぐと言ったほうがよいかもしれない。縄文の時代より受け継いでいる生命。そして我々の生命の源はそこに在った。古代人の天に向かって祈る素朴な姿を通して、私は生命力溢れる音楽を書きたいと思った。どのジャンルの作品であれ、テーマ自体その作品を決定づける。現代そのものを書けばそれはすぐ過去になってしまう。私は敢えて古代をテーマとすることで、より現代的なものを表現しようと思った。
「祈祷天頌」はこの十二月、関西大学混声合唱団「ひびき」によって大阪で初演される。

 人間の何億という遺伝子・染色体の中に、人の皮膚の色を決定するのはその中のわずか二〜三箇、ということを以前聞いたことがある。それならば二〜三百億あるという人間の脳細胞の中のたった二箇か三箇でも、もしかしたら祖先より受け継いだ記憶、概念などがあって、私のそういう何かしら駆り立てられるような衝動は、実はそのわずかな潜在的な脳細胞によって呼び起こされるものなのだと、私はいつ間にか考えるようになった。次の作品のテーマももう決めている。これも完成まで、またあと何年もかかるかもしれない。

 私の初めての合唱曲「永訣の朝」(詩・宮沢賢治)はもうかれこれ十数年前の作品になる。それが今、各地で演奏されている。たまにお手紙を頂戴したり、演奏会のプログラム、さらに演奏を録音したテープを丁寧に送って下さったり、この作品がこんなにも多くの方の支持を得ようとは夢にも思わなかった。この作品もまた他の作品も、十数年前の私の姿をして独り歩きしている。

 今の私は新しい事を想い、そして新しい作品を書いている。それは同時に、今の私の瞬間が作品の中に投影されているとも云えるわけだ。そうしたこれらの作品がまた独り歩きをし、これから十年後、また同じような事を云いながら作曲しているかもしれない。私はその時も、やはりそうありたいと思っている。
                      1983年10月23日埼玉新聞掲載