ある生徒の想い出      1985年埼玉新聞掲載
 「先生!ピアノの先生!こんにちは」、大きな声を上げながら志保ちゃんは元気よく部屋に入ってくる。いつもその声には驚かされてしまう。そうして私が椅子に座っている時には私の膝に乗り、そのガサガサした手で私の頬を撫でる。また立っている時には抱きつこうとする。それが志保ちゃん流の挨拶なのだ。初めはドギマギした私も次第に肩を抱き寄せる余裕まででてきていた。家内がいつだったかそれを見てかなり驚いたことがあった。

 吉沢志保ちゃん小学六年生。軽度の自閉症の障害を持ち、小学校の受け持ちの山崎先生とお母さんと三人で車で四、五十分もかけて通ってきている。
 八月ももう終りに近い、蝉の鳴き声が余計に残暑を感じさせる昼下がり、初めて志保ちゃんは私の前に現われた。音楽に興味を示す志保ちゃんに、何とかしてあげたいという山崎先生(学生の頃、我が家によく遊びにきていた)とお母さんの熱意に、はっきりとした自信もないまま志保ちゃんのレッスンをお引き受けすることにした。

 初めてのレッスンの日。志保ちゃんはかなり緊張していたようだった。ピアノの前にきちんと座ったまではよかったがその後がよくなかった。定石通りに「指のかたちはねー」と始めた途端、奇声を張り上げ少なくとも三回は頭を叩かれた。第一回目のレッスンはあきらかに私の敗北だった。それからというもの毎土曜日のレッスンは私にとってお気の重いものとなった。それが一〜二ヶ月は続いたろうか。気がつくと私のレッスンは「教える」レッスンではなくなっていた。当然教本はなし。そのかわり志保ちゃんのよく知っている歌を教材がわりに使い、感の良い志保ちゃんはいつの間にか一人でその伴奏をつけられるまでになっていた。

 志保ちゃんのピアノのおけいこは、ややもすると二〜三分で終りかねなかった。自分で練習してきた曲を初めに弾いては、もうそれで済んだような顔をしあとは私の言葉など全く耳に入らないようなこともしばしばあった。時に邪道ながら志保ちゃんの大好きなお菓子をチラツカせながら、私の指の型を真似させて指のおけいこをさせたり、それが途中でイヤになってお菓子にしか目が行かなくなると、今度は志保ちゃんをそっちのけに私とお母さんとでピアノを弾き、楽しそうに歌ったりしてみせる。そうすると志保ちゃんはまたピアノに向かおうとする。

 私は「遊び」のような気安さの中でレッスンに馴染ませようと思った。教本へ戻ることもしばしば試みたり、また元のレッスンに戻ったり、それを何度も往き来しているうちに、次第に志保ちゃんは譜面を見ることの抵抗を無くしていったようだった。山崎先生もお母さんもその成果を喜んだ。私も嬉しかった。クラスでの合奏の時間では自分から進んでピアノを受け持つということを聞いていたし、志保ちゃんにとって更に音楽が身近になったようにも思えた。

 発表会の時期になった。家内の主宰する音楽教室の発表会に志保ちゃんも出演することになったが、お母さんの心配は大きかったにちがいない。お母さんを励ますようにしながら、何度も何度も人前で弾く練習をし、そしてなかなかうまくできないお辞儀の練習も繰り返しやった。次第に緊張もほどけ慣れてきた志保ちゃんだったが、周りにの者には逆に発表会に向けて緊張感が高まっていったようにも思えた。

 発表会の当日、私は舞台の袖で、志保ちゃんが自分で工夫して伴奏をつけた「線路は続くよ」などの演奏を祈るような思いで聴いていた。一音、一音、時間をかけて仕上げたその音楽が今志保ちゃんの歌となって会場に流れ、そして堂々とその最後の音まで弾き了えた時、私は思わず「よかった、よかった」とつぶやいていた。お母さんは私の隣で泣いていた。そして何度も失敗しながら練習したお辞儀も上手に出来てステージを降りていった時、もうそこには私が初めて会った時の、それも泣き叫んで私の頭を叩いた志保ちゃんの姿はなかった。

 私は志保ちゃんに何かを教えたように自分では思いながら、結局、私の方が志保ちゃんから実は多くのことを教わったのかもしれない。私の言葉、一挙一動がその素直で純真な心の鏡を通して、私に改めて多くのことを教え考えさせる機会を与えてくれた。

 その発表会の一ヶ月後、山崎先生の転勤で志保ちゃんたちは通ってくることができなくなった。志保ちゃんももう中学生。
 最後のレッスンでお別れを言った志保ちゃんは、何度も何度も振り返り、そして手を振りながらお母さんとそして山崎先生と帰って行った。私は志保ちゃんたちのその後ろ姿を見えなくなるまで見送った。それが志保ちゃんに対する、私のせめてもの最後にやってあげられることのように思えて。  1985年埼玉新聞掲載。