鈴木美智子のこれまで
 1月16日通夜、17日告別式にて

・・・・・鈴木美智子さんのこれまでの人生をここで振り返りたいと思います。
夫の憲夫さんが書いたものをそのまま読ませていただきます。・・・・・・・・

美智子は
昭和28年5月2日、宮城県塩竈市で桑折喜右門(こおりきえもん)、きよ子の次女として誕生しました。

5歳=塩竈ミクニ幼稚園に入園。(後に長女千恵子がこの幼稚園に勤務することになります)
 幼稚園のその同じ組に将来の夫になる私・鈴木憲夫がおりました。
私はその年の6月に仙台に転居をしますが、そのお別れの時、みんなでジャングルジムにのぼり手を振って見送ったことを美智子ははっきり覚えていたということです。そして「この人とまたいつか会える」ともおぼろげに思ったそうです。
みんなの「のりおちゃんさようなら」という姿に見送られ、私は母に手を引かれ幼稚園を去ったことを覚えています。
美智子との再会はそれから14年後の19歳の時になります。
ピアノは幼稚園のころから習い始めました。

小学校は塩竈第三小学校。
とても利発で担任の鈴木武次先生からは特に可愛がられたようで、その後成人になっても交流は続きました。
 通信簿は常に4か5で成績はとてもよかったようです。
小学校時代は習字でも県で特選をもらい、県の小学校・作曲コンクールでは入選したこともありました。

塩竈第三中学校入学。
中学校では英語クラブに所属。美智子にとってはたくさんの友達との想い出深い中学校生活だったと聞いています。

 高校は塩竈女子高等学校に進学。自宅から徒歩で15分程度にも関わらずよく遅刻していたとか。後年の美智子の姿からは想像もできない一面もあったようです。
また高校三年の時は学校をさぼって映画を見た、などという話も聞いたことがあります。
 将来は新聞記者、またエンジニアになりたいという夢もあったようです。
進学は音楽大学に決め、高校二年生ころより、猛烈に受験の準備をし、本格的にピアノを斉藤久子先生に師事するようになりました。以後、久子先生を生涯尊敬することになります。

 大学は宮城学院女子大学音楽科に入学。ピアノは勿論、和声楽の理論など大変一生懸命に勉強をしました。成績も優秀だったそうです。美智子と出会ったころ、私は何度か和声楽の課題をみてもらったことがあります。
 大学一年の時、作詞作曲した曲がNHKの番組「あなたのメロデイ」に取り上げられ、テレビ出演をしたことがありました。曲のタイトルは「ピエロのなみだ」。
「なみだがポロっとこぼれておちた・・・・・」の詩で始まる曲でした。今でも私はその最初の出だしを歌うことができます。
美智子との最初の出会いは友人の紹介でした。お互い19歳。大学二年生の時です。
場所は仙台市内の「無伴奏」という音楽喫茶店でのことでした。今でもその最初の出会いを覚えています。

 私はその頃、学生ながら地元テレビ放送局「東北放送」のCMなどを手がけていました。ある時、予定していたピアニストが急遽録音に出れなくなり、その代役として美智子に録音をお願いしたのでした。周りにピアニストがたくさん居たのに、どういうわけか美智子を真っ先に思い出したのです。出会いからしばらくしてのことでした。
 録音が終わって食事に誘ったその折に、出身が塩竈で幼稚園が同じだったことを知ってお互いに驚きました。
 家に帰り早速幼稚園の遠足の写真を取り出してみるとそこには「オカッパ頭」の美智子がいました。口を真一文字にむずび子供のころからのクセだった首を少しかしげた私の姿もありました。それから急速に美智子との交際が始まりました。音楽会にも数多く二人で行きました。
 美智子は大学時代は音楽科の合唱の指揮もしていました。故前田幸一郎先生の代振りです。
様々なことに積極的に取り組んでいました。

 本日会場でBGMで流した「永訣の朝」はそんな美智子との付き合いの中から生まれたものです。私の大学三年の時の作品です。作りかけている音楽を美智子に聞いてもらい意見をもらったことも随分とありました。

 大学三年の時、作曲仲間三人と作品展を催したこともありました。その時のピアノも美智子にお願いをしました。
私たちの学生時代は共に多くのことを共有して過ごしました。
それぞれの悩みも共有しました。
そして結婚への道を自然に歩み始めたのでした。

21歳それぞれに大学を卒業。
美智子は大学時代から始めていたピアノ教室に専念することになります。
私は卒業後、家業を継ぐつもりで家で働きました。同時に大学時代から関わっていた宮城フィルハーモニー(現仙台フィルハーモニー)に在籍しビオラ奏者兼編曲者としても活動をし始めました。美智子も楽団のピアニストとして、宮城県内各地の小学校、中学校での「移動音楽教室」に参加、活動を共しました。
それは大学を卒業してから二年間続きます。

 ここから少し私のことをお話しさせていただきます。
私の家の家業はその頃より少し拡大をし、新たに漬け物工場を設け、また宮城県全県にその販売を広げようとしていたところでした。
当時は一人でコツコツと作曲の勉強をし(ほとんど夜)、そして家では漬け物の仕込みの仕事、またオーケストラ、その他体操の音楽、CMの作曲・・・・と本当に忙しい毎日でした。
 そういう中で音楽への思いが下火になるどころかますます輪をかけて膨らみ、現実の生活とのジレンマに随分悩み苦しんだりしました。
そんな私の苦しい時、私の相談相手になり励まし、新しい道を踏み出すことに声援を送ってくれたのが美智子でした。
そして24歳の春、音楽を志すために上京を決意しました。
同時に美智子と結婚することも決めました。
先行きのまったく分からない人間と一緒になることを美智子はどのように思っていたでしょうか。
ただ、今振り返ると二人とも夢と希望に溢れていたように思います。

1977年。11月3日仙台にて結婚。与野市(現さいたま市)に住居を構えました。

 美智子は結婚当初、与野と多賀城の実家での音楽教室と行き来する生活でした。
金曜日から日曜日は多賀城にてレッスン。月曜日に帰るという生活でした。
私はその年の4月から東京音楽大学作曲研究科・聴講生になりましたので美智子の音楽教室での収入が私たちの生活費でした。

 多賀城の実家との通いも一年ほど続け、与野市の家でも音楽教室を始める事になりました。
仙台時代のヤマハの知り合いから与野市のヤマハの楽器店を紹介してもらい、「鈴木音楽教室」の看板をかけ積極的に美智子は働きました。
「鈴木音楽教室」は場所もよかったせいかすぐに生徒も増え、最盛期には50人ほどの生徒さんが通ってくる教室となりました。発表会も年に一度行いました。私もピアノやヴァイオリンを教えました。
 レッスンが終わり、夜の10時ころから私は部屋に籠りを作曲をしていました。どこからも依頼のない、とにかく作品を書かねば、という気持ちで毎日朝方まで作曲をする生活でした。
 ある時こういうことがありました。27.8歳のころだったと思います。
私は毎日自分の音楽のことばかり考えている生活でしたの当然収入はなし。
生活も苦しかったので、ある朝、新聞の求人広告欄をみていました。なにか出来る仕事はないかと、私もせっぱずまった心境だったのです。その時美智子は私にこう言いました。「今そんなことをしたら駄目になるわよ」と泣きながら止められました。このことをきっかけに私はより作曲に専念するようになりました。
こうして私たちの二十代は過ぎました。

 30歳になってそれまで住んでいた借家からほど近い鈴谷(すずや)に新居を構えました。この後23年もそこに住むことになります。この家は美智子がまさに飛び歩くようにして探した家です。条件は音楽教室ができる家、そして私の作曲の仕事が出来る家ということで随分時間をかけて探した家でした。
それも私のことを最優先に考えてのことでした。

 生徒も多くなるにつけ、将来音楽大学に進みたいという子もちらほら出ると、美智子の本領発揮です。本当に全身全霊で子供に向かい合いました。仙台の斉藤久子先生に我が家に来ていただき、生徒にレッスンをしていただいたり、久子先生のご紹介で桐朋学園の徳永先生、東京音楽大の鷲見(すみ)先生のお宅まで生徒を連れてのレッスン通いも始まりました。自分も勉強できるから、ということでした。

 与野市音楽連盟の発足時には私と一緒に参加。美智子はコンサート委員として、サロンコンサートではピアニストとして幾度も出演しました。青少年コンサートでは実行委員長も務めました。

 テナーの秋山衛(まもる)先生の伴奏者として屋久島にも同行したことがありました。曲目はオペラのアリアなど。
また韓国演奏旅行、日韓音楽家交流コンサート、その他私の関係するコンサート、催しものでは常に片腕となって助けてくれました。

 思い起こせば三十代の後半から病院のお世話になることが増えました。 
生徒には一切知らせず、音大受験の子供の付き添いを私がしたこともありました。

 四十代の中頃に乳がん。手術、つづけて突発性難聴。以来右の耳が不自由になります。
それから美智子の闘病生活は始まりました。
我慢強く、あまり弱音を吐かない人でした。
抗がん剤を嫌い、食事療法、気功、など積極的に病気と立ち向かっていました。その成果で再発は免れ、しばし平穏な日が続きました。

 三年前の暮れ。気になる咳をしだしたので検査。結果、肺への転移が見つかりました。検査入院を皮切りに闘病生活に入りました。といってもごく初期の段階でしたので、本人は病気の自覚がないほど元気でした。
ただ、これからガンと闘わねばという思いで私もそうですが真剣でした。
入退院を繰り返し、治療にあたりました。
 治療法についてどれほど二人で勉強したでしょうか。美智子が納得いくかたちですべて事を運びました。

 昨年三月ころ横になって休み日が多くなりました。
四月、これまで心血を注いで教えてきたピアノ教室を閉じることにしました。
気力、体力とも自信がなくなったことが大きな理由でした。
人一倍責任感の強い美智子はそのことでも随分と心をいためたようです。
自分の身体のことで精一杯でした。

 昨年五月二十日、帯津三敬病院に入院。
抗がん剤の新薬による治療開始。
肝臓に転移。骨に転移。
七月より抗がん剤使用。その効力で幾分検査でみるかぎり数値も落ち着きました。
しかし肺にたまった水のせいで呼吸も大分苦しくなる日も増えてきました。
リンパ種に転移。
十一月には体力の低下で抗がん剤を中断。
当面は体力の回復をまつかたちになりました。
頭への転移(髄膜)を確認。

12月。
23年住んだ与野市の家から比企郡鳩山町に転居。

 美智子は以前から広々した家に住みたいと口にしていました。台所から庭に出れるような。空気と景色がよいところ。
私は二月ころより家探しを始めました。
昨年は作曲の依頼は全て受けませんでした。
ここ数年仕事に追われ、〆切りの連続では美智子の面倒がみれないと考えたからです。
家を探すのにも七ヶ月かかりました。そこでようやく見つけた家が鳩山の家です。
その間美智子はずーっと入院生活でした。

新しい家は美智子を喜ばせました。
「この家だったら元気になれる」。
二人で年賀状向けの写真を撮ったのは12月21日のことです。
その時も決して具合が良くはなかったのですが、きれいにお化粧をし、お気に入りの服を着てこの世での二人の最後の写真を撮りました。

 12月29日に鳩山の家に外泊。翌朝呼吸の苦しさを訴え病院に戻ります。
その日以来私も病院に泊まり込みの生活が始まりました。
今年のお正月は病院で過ごしました。
咳き込みも激しくなり、咳止めの薬の副作用で感覚も麻痺し、薬の投与を控えるなどしているうちに咳も次第に治まってきました。が、病魔は確実に美智子の身体を弱くしていきました。
 その頃は左肺は水で覆われるようになり、呼吸の苦しさはなかなか減りませんでした。
しかし美智子の持ち前の頑張りで一人でトイレにも行き、一人でお風呂に入り、「食べられない」、という声を無視して私が勧めるものは一生懸命に食べようとしました。

11日夜。10日間以上も泊まり続けた私を気遣い、私も美智子が少し元気になったことにも安心し、「今日はゆっくり家で休んで」という美智子の言葉通り帰宅し、その晩はぐっすり休みました。
12日早朝、病院からの電話で急いで病院にかけつけたものの、すでに息を引き取った後でした。

最後の12日間、一日中美智子と一緒に過ごしました。
無言で見つめ合う時間の何と多かったことか。

「じゃあまた明日ね、ゆっくり休むんだよ」
「うん、気をつけてね」
これが今生での最後の会話になりました。



 美智子は多くの人に愛されました。気遣いは人一倍あり、パワーも人一倍あり、また人の心をときほぐす術(すべ)を心得た愛すべき女性でした。
ここに生前の皆様のご厚誼に深く感謝を申し上げます。


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