弔辞2.谷道明さん           

                弔  辞

鈴木 美智子 様

 美智子さん。あまりにも突然の悲しい報せに、ただただ驚き、戸惑い、うなだれるしかありません。こうしてお別れの挨拶をしなくてはならないことが私には苦しくてなりません。
でも、このことが現実なのだとしたら、今の私にできることは、次の世でのお幸せを祈ることだけです。その想いで、言葉を紡ぎます。

 美智子さんに初めてお目にかかったのは、ちょうど20年前の今頃、1月のことでしたね。
 憲夫先生の「永訣の朝」を演奏した報告に、私が与野のご自宅にお伺いしたとき、憲夫先生と駅まで出迎えてくださいました。
関東ではめずらしく雪の多く積もった日で、駅からご自宅までの畑に囲まれた道すがら、美智子さんはこっそり雪玉をつくって、突然「えいっ」と私に投げました。憲夫先生が優しく諌めるのも聞かず、私に命中したことを大喜びしていましたね。

 ご自宅では、真央ちゃん、リボン、ポッポ、ししまる・・・といったお名前のネコちゃん達を人とおなじ、あるいは人以上に敬愛し、とても大切にしていましたね。美智子さんはとても純粋で、無邪気で、目の前のどんな出来事にもワクワクする、楽しいことを思いつく・・・そんな人でした。

 その後、私は憲夫先生に新曲「めぐりは永久に(現・祈祷天頌)」の委嘱作曲をお願いすることになりましたが、私から先生に「僅かな謝礼しか用意できない」と無理をお願いしていたとき、私の背後で、美智子さんは先生に向かって腕で大きなバツを出されていたと何年か経って聞きました。憲夫先生の才能を一番買っていた美智子さんの、「安売りはダメ」という決意の表れだったのですね。さすがです。

 与野のご自宅の2階で、何度も宴会をしましたね。ピザやスパゲティの日、炭火焼肉の日、新鮮な魚介類が届いた日・・・確か、その日はお友達と大掛かりな壁紙貼りかえを完成させた日でしたっけ。
音楽仲間やご近所の方々の話、人生や音楽や食べ物や子供の頃の話、病気と闘う話も真剣にしましたね。

 憲夫先生は、美智子さんには「なかなか勝てない」という話をよくしてくださいました。鈴木家の男性が女性に、どういった状況で、どうして勝てないのか・・・お二人で実演してくださいました。
 美智子さんの「だって」に唯一勝つことのできる憲夫先生の言葉は「お願い」でしたね。とてもリアルでした。

 外でもよく飲みましたね。演奏会の終わった夜はもちろんのこと、新年会や忘年会といった歳時記を冠にして飲みました。カニ食べ放題の店では、美智子さん自ら、特別に我々の人数分のハサミをお店から借りてきて配ってくれました。
「食べ放題2皿めからカニの質が落ちるのは良くない、これもお店のためだ」なんて店員さんに厳しく指摘していましたね、ヒヤヒヤしましたよ。フグ料理の店では紙ナベがなぜ焦げないのか、ものすごくしつこく店員さんに質問していましたね。とても勉強になりました。

 美智子さんはいつもビールを飲んでいました。グラスが空になると周囲に必ずお酌を迫りましたね。
飲みながら、憲夫先生のことになると、「うちのオトウちゃんは絶対に才能ある」と力説しました。私が美智子さんと憲夫先生に出会うきっかけとなった作品「永訣の朝」を先生が作曲されていた時分から、美智子さんは先生の最大の理解者であり、支援者であり、時として機関車として引っ張ってこられました。

 お二人は夢をもって宮城から関東に出てこられて、でも、先生の作品がまだ世に広く出回らない頃、決して楽ではない生活が続き、先生が「僕は普通の会社で働く」と云ったとき、美智子さんは「私が食べさせてあげるから、あなたは作曲のことだけ考えていればいい」と猛反対されたのでしたね。

 ピアノのお弟子さんをたくさん採って、先生には作曲の時間をふんだんに用意して差し上げました。先生の作品を高く評価した編集者の松野さんのことに話が及ぶと、美智子さんは涙を流して「やっとわかってくれる人に出会えたと思った」と話していました。

 ご自宅の改装に来た大工さんも覚えてしまったと云うほど何度も何度も繰り返される作曲中のワンフレーズを聴きながら、美智子さんは憲夫先生の考えていることや体調までも感じ取っていたのですね。

「雨ニモ負ケズ」の初演の夜、ホールの客席で私は美智子さんの隣に座っていました。中盤、「東ニ病気ノ子供アレバ」のフレーズに入ったとき、美智子さんは突然ポロポロと涙をこぼしましたね。後で「オトウちゃんが作るのに一番苦労してたトコだったから」と話してくださいました。今、我々が歌い、奏でることのできる憲夫先生の作品の殆んどは、美智子さんとの共同作品なのです。

 病を得た後は、身体のこと、お医者さまのこと、「生きる」ということについて、たくさんお話をしました。病気を治すためだけの治療や入院は薬漬けになるだけだ、自分は「生きる」ことで病気を乗り越える、と。とても力強い言葉でした。
私はそれを信じていました。今から何年か前には、もう病を乗り越えてしまったのだと思っていました。

 美智子さん。今日だけでなく、お話したいことはまだまだあるのです。でも、あなたは我々の前から旅立ってしまいました。すでに先立った、愛するネコちゃんたちが居るところに、あなたはこんなにも早く往ってしまいました。

 憲夫先生にも、我々にも、こんなにもたくさんのエネルギーと笑顔を与えてくれた美智子さん。どうか、その場所から、我々を見守ってください。また、声をかけてください。お酌を迫ってください。目をつぶっている間に、また笑いながらお話をさせてください。

淋しくて仕方ありません。
憲夫先生はこれからも我々のためにたくさんの作品をつくってくださいます。そこには美智子さんの支援と協力が息づくものと思います。
美智子さん、これまで本当にありがとうございました。どうぞ安らかに。
心から次の世でのお幸せをお祈りします。

平成19年1月16日
谷 道明(ひびとも会合唱団/指揮者)

   

            弔辞1.中村淑子さん
            弔辞3.澤口正一さん 
           哀悼歌:小田切清光先生 
             美智子抄トップ 
             HPトップページへ