ゲスト・エッセイ館
最終更新7.18
◆日々思うこと、伝えたいこと、音楽のこと、などなど、エッセイ風に書いて下さればここに掲載させていただきます。ただし、批評はよいとしても批判の類いなど、その内容によって、管理者の判断で掲載しかねる場合もありますことをご了解下さい。(ニックネームでも結構ですが、できれば実名でのご寄稿を期待しています)
 尚、掲載させていただいた場合はお礼として当ホームページ、出版リストの中からご希望の楽譜、また試聴盤を進呈させていただきます。

ゲスト・エッセイ(4)
私と合唱とサッカーと
山本 久義さん。
自己紹介は最後に。
左の写真はデイズニーランドで撮られたというご家族のお写真です。
山本さんは左、ギターを片手のおニイさん。
バックナンバー
4.私と合唱とサッカーと03.7.18
3.めぐりあいの中に03.3.29
2.学生生活と合唱 03.3.18
1.私と「永訣の朝」03.1.29
 合唱を始めたのはいつですか?きっかけは何だったのでしょうか?
皆様お一人お一人、きっといろいろな合唱経歴をお持ちでいらっしゃると思います。私の場合も数々のエピソードを重ねながら合唱ストーリーを歩んできました。
題して「私と合唱とサッカーと」。唐突ですが、私の合唱経歴のお話です。

 私の合唱初体験は中3の時。音楽の先生に「君は素晴らしいバリトンバ〜スだ。是非、手伝ってくれ。」と引っ張られたのがきっかけです。女声だけだった合唱部に助っ人で加わり、市内の中学生500人と一緒に市民ホールで「翼をください」を斉唱しました。その迫力にエクスタシーを感じ、それまで下手ながらも軟式庭球一筋だった少年はこの初体験に大いに感動したのです。しかし、若気の至り。その感動もすぐに醒め、高校時代も軟庭一筋。結局、あまり上達せず、3年になっても補欠でした。今から思えばちょっともったいない3年間だったかもしれません。

 さて、大学に入学。早速、こっそりと軟庭の練習を覗いてみました。そこで目撃したものは、卓球のように一歩も動かず、延々と続くハイレベルな乱打。早々に見切りをつけたのは言うまでもありません。さて、これからどうしたものかと思案しかけた矢先、グリークラブから「合コンやるけど来ない?」の甘い誘い。とりあえずついていき、とりあえず入団しました。
 直接的な動機はよこしまでしたが、次第に深層心理の奥の方から中3のあの体験が蘇ってきました。以来4年間、浮かれた話には恵まれず、ただ純粋にあの感動を追い求め、男声合唱にどっぷりつかった大学生活でした。

 こうして、合唱の歓びを知ってしまった若人が社会人として野に放たれた訳ですが、就職してすぐ、大病を患い、半年間の点滴生活を強いられました。宣告された病名はクローン病。消化器系のそこかしこに潰瘍ができ、消化能力が低下し、発熱や腹痛を伴う、まだ完治方法の見つかっていない難病です。結局、ちょっと無理をして会社の試用期間ぎりぎり1週間前に、会社に復帰。首の皮一枚で路頭に迷わずにすみました。
 それから数年間は、会社と自宅を往復するだけで目一杯。当然、大好きだった合唱も封印し、ぼちぼちと用心しながらの会社勤めを強いられました。

 しかし、20代後半に差しかかった頃、この単調で味気ない生活に肉体より先に精神の方がダウン。目先の変化を求め、たどり着いた先は「そうだ。私には合唱がある」。不安を抱えつつも合唱人生の復活に向け、一念発起しました。その決意の翌日、近所の酒屋さんで偶然、市民合唱祭のポスターを発見。迷うことなく出かけ、意中の混声合唱団とめぐり会い、迷うことなく入団しました。難病発症から6年目のことです。
「合唱」はいつも私のすぐそばにいて機が熟すのをずっと待ち続けてくれていた、そんな感じの合唱との再会でした。

 さて、合唱再開当初は、準備体操さえままならず、発声で声がかれてしまいました。第九の前日練習で背中の筋を痛め、一晩中七転八倒し、結局本番に乗れなかったこともありました。確かに苦労続きでしたが、「合唱」は日々の生活のカンフル剤になり、気分的にとても楽になりました。翌年には、団の仲間を中心に男声合唱団の結成に参画。その翌年には合唱団内9組目となる結婚。と、これまでの鬱屈していた生活からは予想だにしなかった大変化が起こりました。
 実は愛妻とは入団後に知り合ったのですが、偶然にも一緒にあの「翼をください」を歌った同じ中学の後輩だったことが判明。よって、共通の師、知り合いは多く、今も地元に住んでいるので、スウィート10を迎えてなお、「なんで二人が一緒なの?」と驚かれたりします。

 結婚後、気の緩みと不摂生から持病が悪化し3回ほどの入院もしましたが、2人の子供を授かり、次第に地力もアップ。ただ40歳目前にして、体がゆるみ出し、昨秋、体重も6kgアップ。会社の体力測定で、「この6kgは全部、脂肪だと思って下さい」と、きつい宣告を受けました。その危機感から止せばいいのに前々から誘われていた長男が入っている少年サッカーのコーチに就任しました。当然、サッカー経験はなく、スポーツも20数年ぶり。ほとんど役に立っていませんが、半年を過ぎ、走りに関しては子供達と互角に戦えるようになりました。日焼けも久しぶりですが、これから始まる恐怖の夏の炎天下も久しぶりです。なのに、走っても走っても体重が減りません。6kgの脂肪はすべて筋肉になったと勝手に解釈することにしました。今、唯一の悩みはサッカーの練習中、ついつい怒鳴ってしまうせいで、テナーの甘い声が応援団風になりかけていることです。

 さて、人生80年とすると今年でちょうど人生を折り返したことになります。気の合う仲間達と共に混声合唱と男声合唱を楽しみ、未来を担う目映いばかりの子供達とサッカーを通じて触れ合い、仕事の方は相変わらずぼちぼちながらも続いています。残りの半生、こんな私にどのような展開が待ち構えているのでしょうか。以上、ある一合唱人の半生記でした。


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―自己紹介―
混声合唱団平塚コールグリーンでテナーとWEB管理者を担当。
 http://www2.ocn.ne.jp/~chrgreen/
平塚男声合唱団コールブラックスでセカンドテナー担当。
明治大学男声合唱団グリーン・ヒルズ・ボーカル・グループ元幹事長。  
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−あとがき−
 合唱をたしなむこと20年。実はまだ先生の作品を歌う機会に恵まれておりません。
こんな皆様からお叱りを受けそうな私ですが、先生との出会いは混声版「みすゞこのみち」でした。今年2003年は金子みすゞ生誕100年ということで、インターネット等を通じて混声合唱曲を物色していたところ、偶然、先生のホームページに辿り着いたのです。
今年の1月のことでした。すんでのところで、所属合唱団の選曲には間に合いませんでしたが、以来ちょくちょく、先生の人間味溢れるホームページにお邪魔しております。そんな新参者の私ですが、このゲストエッセー館のエピソード的な役割を果たせられたらと思い、投稿させて頂きました。
                                 03年7月15日

鈴木:山本さんからは上のように作品についてのお尋ねから、メールを通しての交流が始まりました。残念ながらまだお目にかかる機会がありません。一度、HP上でご紹介したコンサートに来て下さったとのことですが・・・。今回は合唱との出会い、その後、現在、を書いて下さいました。今後、ご縁があって、お目にかかれるのを楽しみにしています。
ありがとうございました。