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「HP通信3」は08年1月より再開しました。 「HP通信1→2005年」 「HP通信2→2006年」 「HP通信3→2008年」 「HP通信4→2009年」 「HP通信5→2010年」 「HP通信6→2011年」 「HP通信7→2012年」 「HP通信8→2013年」 |
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HP通信NO.369/ 2014.12.18 前回の更新より大分間が空いてしまいました。 ローマ・バチカンツアーでご一緒した方から今でも時折感謝のお便りやメールを頂戴しています。 ローマから帰り一ヶ月が過ぎました。 思い返すと「夢」のような7日間でした。 今はその余韻に浸り、様々なシーンに思いを馳せています。 さて、今月から利府に滞在しています。 12月になってから頻繁に鳩山と行ったり来たりをし、ほぼ利府でも仕事ができるように準備をしました。 しばらくは利府に滞在することに致します。 スケジュール的に外に出かける日があまりないこともあり、またしばらく滞った仕事を腰を据えてやらねばなりません。 郵便や宅配など転送の手配も済みです。 メールはこれまで通り使えますので、御用のある方はメールにてお知らせ下さい。 12月18日朝、私の部屋から見える風景。 やはり仙台は寒いです。 昨日も夕方から小雪が舞い、夜には若干積もりました。 いつもさほど積もらないのです。 しかし散歩をしていると日陰の小径など路面が凍っていて危ない!。 二日に一度は塩竃神社にお詣りをしてます。 塩竃神社までは徒歩で30分、そこから近くのラーメン店やお蕎麦屋さんに寄り、また歩いて帰る、という日々です。 大体2時間の行程です。 仕事も勤勉にしています。 利府では家事は一切ナシの気楽な身分。 食卓に座るとご飯は出て来るし、洗濯物は毎日たたんで置かれるし、ホントに楽チンです。 普通でしたらホームページの更新は鳩山にあるPCででしかできないのですが、それも運んできました。 まるでミニ引っ越し。 マノンなど凄いものです。身一つでの引っ越しですから。 そういう時思うのです。「ネコっていいな〜」。 先日鳩山を出るときにマノンにしばしのお別れを言いました。 分かっているのかどうだか、後でこの写真を見たら心なしか寂しそう。 立ち去るとき、足にスリスリしてくれました。 居候先の大橋さんのお宅ではマノンを可愛がってくれますので、元気に暮らしてくれると思います。 しばらくの間は利府からこのホームページを更新することとします。 まずはミニ引っ越しのご挨拶まで。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 新刊「3つの聖母マリア賛歌。 |
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HP通信NO.368/ 2014.12.2 < ローマ・バチカン 帰朝報告 その2 > 前回の更新では主に4日目のナヴォーナ広場「サンタニエーゼ・イナゴーネ教会」でのコンサートを模様をご紹介しました。 ご紹介が前後しましたが3日目の「システイーナ礼拝堂での演奏」についてご報告します。 システイーナ礼拝堂はバチカンでも最も神聖な礼拝堂として、中に入ると息をのむほどの絢爛さと、厳粛さを合わせた場所です。 この日夕方、11月10日、市内での練習を終え、バチカンに到着しました。 バチカン博物館の入り口。全員で記念撮影。演奏するための服装。博物館を通って、システイーナ礼拝堂へ。 この先は指定区間以外は一切の写真撮影は禁止。私のお隣から中村禎子先生、箸尾哲男先生、オルガニストの追中宏美さん。 一般の観光客のいない、私たちの貸し切り状態のバチカン博物館にて。 壁面は天井まで目がくらむほどの数々の美術品。 バチカン博物館の内部(ごくわずかな区間だけ撮影が許された) システイーナ礼拝堂内部(Wikipediaより) ミケランジェロ「最後の審判」(Wikipediaより) この天井画の真下で私の新作「3つのマリア賛歌」より「Regina caeli」を演奏をした。 システイーナ礼拝堂の保存のために、今後、一般観光客の制限がなされる見通しとのこと。 演奏も「壁に伝わる振動による絵画破損の保護のため」今後、実現は難しいとのこと。 もしかしたら私たちが「最後の演奏」になるかもしれない、との話もあった。 5日目、12日はサンピエトロ大寺院の広場にてローマ法王様と謁見することができました。 本来は「ヘンリー6世ホール」にて行われる予定でしたが、何と6.000人を越える人々が集まり、急遽、広場にて行われました。 私と法王様との写真はバチカンのご好意で特別に頂戴しましたが、 これはあくまで「個人的な範疇での使用」ということでここでご紹介できないのが残念です。法王さまと握手のシーンです。 前回の更新で「奇跡的なことが起きました」と書きましたが、サンピエトロ大寺院で行われるミサで、 私たちが「聖歌隊として」の要請を受けたのでした。謁見が終わっての夕方。 一介の旅行者にすぎない私たちの演奏が、サンピエトロ大寺院の「メインの祭壇」において響くことになったのです。 上の写真は許された関係者によって撮影。左は聖歌隊席で待機する私たち。右はミサの中で演奏しているところ。 曲はミサの内容に則して「Ave verm corpus」そして私の「マザーテレサの中の<私たちのしていることは(Agnus Dei)>、 私の「Ave Maria」同じく「3つのマリア賛歌の中から<Salve Regina>。 奇跡と申しましたがこれは華美な表現ではなく、実際、この場で外国人の合唱団が聖歌隊として列するのは極めて異例とのことでした。 「異例」とはバチカン側の声明で、実際は「初めて」のことでは、とも関係者からの口から聞かれました。 この聖歌隊の席には「システイーナ礼拝堂の聖歌隊」のみが許されるとも聞きました。 更に、外国の曲(日本語)で作曲者の指揮で、ということも「極めて異例」とのことでした。 それもこれも前回ご紹介したバチカンのミサなどの音楽監督を務める「Fabio Avolio」さん(下、写真)との出会いがきっかけでした。 ローマ市内での私たちの練習に頻繁にお顔を出してくれ、この驚くべきことが実現したという次第でした。 Fabio Avolio=ファビオ・アヴォーリオさん。サンピエトロ大寺院のオルガニストでもあります。 ミサを終え、特別のご好意で全員でメインの祭壇の前での記念撮影が許された。 私の右となりが中村先生、私とファビオさん、オルガニストの追中宏美さん、箸尾先生。 コーラスのメンバーの中にはカトリック信者の方も居られて、ミサの最中、演奏を抜け出して「聖体拝領」をされた。 信者の方々にとっては思いもかけないことで、大変感激のご様子だった。 サンピエトロ大寺院の中のミケランジェロの有名な「ピエタ像」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<雑感>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ あっという間のローマでの5日間、演奏回数4回。 ローマでの初顔合わせでの練習、本番のための移動、つかの間の観光と、とても慌ただしい日々でした。 そして滅多に経験できない素晴らしい思いを胸にしました。 このホームページの写真は殆ど、ご一緒いただいた方々から頂戴したものです。 自身で写真を撮ることさえ余裕がありませんでした。 こうしてたくさんの写真を見ると、ローマの想い出が甦ってきます。 ローマ法王様と間近にお会いし感じたことは「自然体の醸し出すほほえみ」が素晴らしいと思ったことでした。 私なりにご挨拶したことを通訳がお伝えしたのでしたが、その間も「包み込むような笑顔」を絶やしませんでした。 「威容」というよりは「抱擁」、かねがね法王様の人となりについては知っていただけに、尚更のこと素晴らしさを感じました。 とても感激しました。イタリアでも法王さまの人気がとても高いということです。 イタリア料理の何とおいしかったこと!「ボ〜ノ」です。 いくつかイタリア語の単語を覚え、使うことの楽しさ!。 音楽用語で、やはりイタリア語には馴染みがあるものですから発音などさほど違和感は感じませんでした。 ラテン語で私の名前は「NORIONE SUZUKIO」。ローマでは皆さんに「ノリオ〜ネ」と呼ばれました。 これからも各地に行って、「ノリオ〜ネ」と声がかかるのを楽しみにしています。 お土産は殆ど買えませんでした。 ネクタイが一本、絵はがき、カレンダー、自分用に買ったのはそれだけ。 ローマにはもう一度行きたいナ〜と思っています。 何しろ街のいたるどころが博物館・美術館なのです。 街では今でも発掘している箇所もあります。 ただ今、地下鉄を工事しているらしいのですが、途中遺跡にぶつかって中断の連続らしいです。 今度ローマに行くときは一日中、美術館を周り、街角のカフェでビールやワインを飲み、買い物でブラブラしたいものです。 はたしていつのことになるやら・・・・・・。 とにかく感激の連続、楽しいローマの旅でした。 ローマ法王さまに献呈し、装丁した自筆楽譜。これは日本で職人さんに特注したもの。 ・・・・・・・・・・<ア・ラカルト ローマ/ナポリ>・・・・・・・・・・・
ローマでの数日間は本当に「つかの間の夢」のようでした。 写真では紹介しきれないのは勿論、それらは心の中に宝物のようにこれから「抱くべきかな」と今思っています。 ご参加いただいた皆さんご一緒いただき本当にありがとうございました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ローマから帰って翌16日、墨田トリフォニー・ホールで行われた「東京リーダーターフェル」のコンサートに伺いました。 曲目は「永久ニ」。指揮は樋本英一さん。残念ながら写真撮り忘れました。 その1週間後の23日(土)東京世田谷のNHK研修センターで行われた講習会で講師を。 その写真を撮り忘れました。 その足で山形へ。 24日(日)は山形市で「やまのべ女声」の演奏会で「ラブ・ストーリー」の客演指揮をしました。 左からピアノの大沼美紀さん、吉田ユカリ先生、客演したシュガーシスターズの佐藤容子、寛子姉妹。 吉田先生とは永いお付き合いで、いつも私の作品を演奏して頂いています。 「やまのべ女声」はおかあさん全国大会では常連。 この日も素晴らしい演奏を聴かせていただきました。 佐藤姉妹は山辺町の出身。芸大の声楽を卒業されて、現在大活躍中。最近CDも発売しました。 そのお母様も「やまのべ女声」の団員。 この合唱団はいつ伺ってもユカリ先生のお人柄そのままに温かな雰囲気が漂っています。 29日(土)は長野市で活躍する男声合唱団「ZEN」の演奏会へ。 この合唱団の指揮者は宮下荘治朗先生。 これまで男声版の「般若心経」「雨ニモ負ケズ」の委嘱・初演をして頂いています。 この日の曲目は男声版「永久ニ」。 オリジナルの混声は宮下先生指揮、諏訪合唱団で委嘱・初演されました。 ZENの現在の団員数は100名。平均年齢はおそらく私の歳以上ですが、何ともパワフルな合唱団です。 打ち上げで。宮下先生、ピアニストの小林夏実さん、小林秋菜さん(ご兄弟)と。 初演してくれた諏訪合唱のメンバーも応援にかけつけてくださいました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 今回は「ローマの報告」もありましたので、大分盛りだくさんの内容になってしまいました。 もう12月。 年内は外に出かけるスケジュールはほぼ終わりましたので、これからは利府と鳩山を往復しつつ、山積みになった仕事に没頭することとします。 中旬頃にまた更新をいたします。 どうか師走の気ぜわしい中、御身、お大切になさって下さい。 新刊「3つの聖母マリア賛歌。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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HP通信NO.367/ 2014.11.22 < ローマ・バチカン 帰朝報告 その1 > 15日、無事にローマより帰って参りました。 総勢90人、どなたも事故や怪我や病気に合わず、元気に帰ってきました。 「奇跡」のような出来事も経験しました。 私はもとより、参加者全員がおそらく一生の想い出に残るローマ・バチカンでの日々となりました。 まず順を追って写真でツアーの模様をご紹介します。 8日成田を出〜発! ローマに到着して、早速ローマ市内の教会で練習開始。 日本ではそれぞれに練習してきましたが、ローマで初めて全員がそろっての練習。 練習の合間の「つかの間」の観光。左がスペイン広場で。右が有名なコロッセオ。右は同行してくれたカワイ編集の私の担当木村君。 バス二台で移動。左が今回朗読を務めて下さった箸尾哲男先生。 観光名所で有名な「「ナヴォーナ広場」。正面が12日のコンサートが開かれる<サンタニエーゼ・イナゴーネ教会>。 教会入り口にはコンサートのポスターが。 演奏前の記念写真。 音響は勿論素晴らしく、華厳な教会の雰囲気の中で厳粛としつつも演奏者自身が感動する瞬間を得た。 夕方5時からの演奏会だったが、満員の観客で、終わっても拍手がしばし鳴り止まなかった。 演奏曲目は「マザーテレサ・愛のことば」「3つの聖母マリア賛歌」(初演) Mozartoの「Ave verm corps」 「アヴェ・マリア」。ラストが本当はAve verm corpsだったのが、教会の配慮で、初めと終わりは鈴木作品でということになった。 「3つの聖母マリア賛歌」は初演だったが、誠に、この作品が歌われるべき場所で初演できたということはこの作品にとって幸運だった。 広場に面した教会前で。 教会前のナヴォーナ広場で、コンサートが終わってほっと一息ついているところ。 演奏会が終わってもまた翌日は前日とは違う市内の教会で練習。 この方は「Fabio Avolio」さん。バチカンのミサなどの音楽監督を務める方で、私たちの練習に頻繁にお顔を出してくれた。 この出会いが私たちにとって思いもかけない「幸運」「奇跡」を「もたらしてくれた」。 この続きは次回。 次回の更新はあまり間を開けずにしたいと思っています。 私はカメラを持参したものの、殆ど撮影しませんでした。 写真は、ただ今、皆さんからお寄せいただいているものを整理中です。 まずは取り急ぎ第一報まで。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 新刊「3つの聖母マリア賛歌。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ クリックすると他のページも見れます。 お問い合わせ、資料請求などエムセックへ。 メールは<info@mcec-inter.com> |
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HP通信NO.366/ 2014.11.6
横須賀市民合唱のつどいー横須賀線「衣笠駅」近くの「はまゆう会館」前で役員の皆さまとー 「横須賀市民合唱のつどい」に今年も招かれました。6年目です。 このように同じ会に連続して招(よ)ばれるなどあまりありません。 上、写真の私のお隣が山田茂雄会長です。 この会は「和気藹々」、それもこれも山田会長の後光のさしたご人徳ゆえです。 看板も毎年会長ご自身の手作り。 そういうところからして会長の、そして皆さんの心遣いが素晴らしいのです。 2日間にわたり、およそ60団体。人数は1.500人を越えます。 11月1日2日と行われましたが、それぞれの午前と午後の部でお話をします。 ですから計4回お話したことになります。 毎年、とくに「何を話そう」と決めている訳ではありません。 今年は「和気藹々」についてお話しました。
ローマから帰ったらまだいるでしょうか。 |
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HP通信NO.365/ 2014.10.31
日ごとに秋の気配が漂うこの頃となりましたが、皆さまにはいかがお過ごしでしょう。 明日から11月。 ローマへは7日からです。 11月など「ずーっと先」のような感覚でしたが、ローマ・バチカンはもうすぐ近くです。 東京、京都、宮崎での練習も終え、後はローマでの合同練習を残すのみとなりました。 京都では教会で、オルガンの伴奏で練習をすることができました。 実際、合唱と合わせてみると「合わない!」。 「残響」による「時間差」はもとより、楽譜自体が「イケなかった」のです。 ピアノの楽譜をそのままオルガンで弾いてもらっていたのでしたが、それが「イケなかった」のです。 帰宅して急遽、楽譜を全て「オルガン用」に書き直しました。 何しろ時間がないものですから2日で書き終えました。 これで何とかなるでしょう。 皆さん一生懸命に取り組んで下さっています。 今回は宮崎市周辺の13.4名の方々、他に福岡から4人、京都では20数人、東京組には各地から約30数人、合唱はほぼ70人。 応援の方々約20名を入れると総勢90名を越える皆さんと一緒にローマに向かうことになります。 宮崎でのバチカン練習を終えた翌日、来年8月に行われる「楡の会」の演奏会のための練習をしました。 上の皆さんは「楡の会の役員」「宮崎はまゆう」の役員の方々です。 前列右端の方が指揮者の中村禎子先生です。 「楡の会」は宮崎市の合唱団が集まって作られた会で30年の歴史を持ちます。 中村先生/宮崎はまゆうの皆さんがを中心になって活動されてきました。 私は4.5年前にゲストとして招(よ)ばれ、来年、延岡市での開催でもゲスト出演をいたします。 ちなみに今年のゲストは池辺晋一郎先生でした。 ダジャレ連発で皆さん「大変でした」とのこと。 池辺先生のダジャレは機関銃のごとく「連射」です。 私のは先生から比べれば「水鉄砲」のようなもの。 私は尊敬を込めて池辺先生のことを「水戸様」と呼んでいます。(池辺先生は水戸ご出身なので) 中村先生/はまゆうの皆さんとはもう20年来のご厚誼をいただいています。 宮崎歴訪は数えきれず。ですので皆さんとの交流も大変厚いものに。 先日などは写真の私の後ろあたりにいる御人などは 「先生!みな痩せた痩せたと言っちょるけど、そばで見るとそうでもなかがね」と、 まるでスイカの値踏みをするように私のオナカを「ポンポン」と。 それもこれも中村禎子先生とのご縁の賜物です。 中村先生もローマにご同行いただきます。 今月は広島・三原市でのコーラスフェステイバルの講師として伺い、その足で前記した京都でのバチカン練習。 そして東京でのバチカン練習の翌日は宮崎市と、あちこちと出歩いていました。 しかし今月もたくさんの映画を観ました。 劇場では 「猿の惑星」「舞子はレデイ」「ふしぎな岬の物語」「ヘラクレス」「るのうに剣心」「記憶探偵と鍵のかかった少女」 「ガーデイガン・ギャラクシー」など。 DVDでは主なものでは「ヨコハマ・メリー」(ドキュメント)「マイ・ライフ=アズ ア ドッグ」(スエーデン映画) 「トウヤーの結婚」(モンゴル映画)などなど。 最近は映画の話題はあまり書いていませんが、相変わらず、劇場では月に5本程度、DVDは観る時は10本以上観ています。 DVDはこのところ偶然ですがあまり注目されない映画を続けて観ましたが、秀作でした。 アメリカ映画でのような派手なSFXなどまったくなしで、素朴で映画らしい映画を味わいました。
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HP通信NO.364/ 2014.10.17 肌寒い日が続くこの頃となりました。 皆さんいかがお過ごしでしょう。 私はお遍路から帰ってから比較的ゆったりと過ごしております。 とくに目の前に差し迫った締め切りもないので仙台に1週間ほど滞在し、毎日、散歩、そして映画と明け暮れていました。 バチカンの準備は着々と進んでいます。 来週以降、東京、京都、宮崎にて日本での最後の練習を済ませれば、あとは「ローマへ一直線」です。 歩ける日は未だに一日8km前後は歩いています。 四国では10日間もかなりハードに歩いたので体重は減るかナ?と思いきや、逆に体重が増えていました。 これは「筋肉の重さ」なのだそうです。 それを聞いたら尚のこと、折角付いた筋肉ですから「衰えない」ように毎日せっせと歩いているわけです。 先日の利府滞在で、いつもながら塩竃神社に行ったのでしたが表坂の202段の階段をスーッと苦もなく登れました。 まるで足の「パーツ」を取り替えたみたいに。 「鍛えられて」いたのです。 私は身体を鍛えるという習慣はないものですから嬉しくなりました。 下の写真は利府の家から、墓参りに七ヶ浜町まで(約10km)歩いた時の写真です。 このお地蔵様は私の「地蔵礼讃」のモデルになりました。 今はコンクリートで固められていますが、昔は傍に大きな木があり、ポツンと村のはずれに佇んでいました。 私の頭の中には昔のその風景が今でも存在しています。 この日、帰りも歩きましたので往復20kmは歩いたことになります。 「オンカカカービサンマエソワカ」(地蔵菩薩のご真言) 14日、利府の帰りは山形に寄り「やまのべ女声合唱団」のリハーサルに伺いました。 来月24日(月・振休)に山形テレサでコンサートがあります。「おかあさんコーラス全国大会」では参加常連団体です。 そこで私の「ラブ・ストーリー」を客演指揮、朗読もします。 合唱団の指揮者は吉田ユカリ先生(下の写真で私の前に)。 いつも素晴らしいご指導で、見事に整えられた演奏でこの日も楽しく指揮をさせていただきました。 本番が楽しみです。 練習後には皆さんで前祝い。(室内が暗くて残念) このコンサートで演奏される「ラブ・ストーリー」は5曲からなる組曲ですが私の詩が2つあります。 そのひとつが「永遠の一日」。 私と亡き家内との若き日を描いた詩です。舞台は仙山線の「山寺」。 8年前、やはり「やまのべ女声合唱団」のコンサートに客演指揮で招(よ)ばれた際、帰りに「山寺」に寄ったことを書いた詩でした。 ですからこの作品は、「やまのべ」さんととてもご縁があるのでした。 ついでに言うと、この組曲にもうひとつ私の書いた詩「ネコ物語」があります。 「空からいのちのかけらが落ちてきて 小さな小さな子猫になった」で始まる詩です。 その中で、捨て猫2匹が次々と拾われて行く中、三毛猫だけがぽつんと取り残されます。 「・・・でももうすぐおじいさんがやってきて、三毛ネコ子猫を拾っていくだろう、 泣きつかれて丸くなって眠ろうとした時、ホラ、おじいさんがやってきた。 またひとつ、新しい物語が始まる」 という歌です。 この他に、桜の花びらが地上に落ちた時、それは始まりなのか終わったのか、という<まど・みちお>さんの「さくらのはなびら」。 五月の森の中、男女の何とも味わい深い絵画的な世界<やなせたかしさん>の「五月の森で」。 「母」とはまるで昼の月のような存在だ、見えないけれどいつも見守ってくれていると歌った<坂村真民>さんの「昼の月」。 まるで作品解説のようになってしまいましたが、この作品で私はひとつの出会い、それがたとえ草花との触れ合いにしても、 必ずやそこに「ひとつの物語が生まれる」と、言いたかったのです。 言い方を換えるなら「人は何か物語を生み出すために生まれて来た」とも言えるのではないかと思います。 それは人に限らず、花やネコだって皆そうです。 実にたくさんの物語が私たちの周りにあります。 耳や心をすますとそのたくさんの物語に出会えそうな気がします。 上で気楽に映画や散歩などしています〜などと書きましたが、プラ〜プラ〜としていそうで実は新作のための詩も考えているところなんです。 昔々、私がヒマそうにタバコなんかくわえていると、それを見て家内が私に言ったものです。 「お父ちゃん、ちょっと買い物いってきてエ〜」などと。 それに対して私。「今とっても忙しいんだよ!」。 ある朝のメニュー 中央の皿に、ひじき、野菜(人参、里芋、たけのこ、ごぼう、こんにゃく、レンコン)=スーパーのお惣菜。 とうもろこし、わかめの入った汁物、ヨーグルトと牛乳とブルーベリー、とご飯。 一度、栄養士さんに指導を頂いたりすると、「過食」の時など反省してこうした食事になります。 上の献立を見て「動物性タンパク質」が「ない」とご指摘を受けそうですが、 外に出ていて自分のペースで食事が出来なくなる日が続いたりすると、また肉料理が続いたりすると時にこうしたメニューになります。 お遍路さんの時の民宿の料理には驚きました。 非常にカロリーの高い食事でした、が「体力消耗」のことを考えればうなづけます。 最近は上の写真のようなこうした食事が多いです。 「何故か?」っと言いますと、ローマで思い存分食べて飲んで「ボ〜ノ〜」をしたいからです。 良い「心がけ」だとは思いませんか? ローマが近づくにつれ、私の心も「バチカン」に向けてそろそろ標準を合わせて行こうかと思っているところです。 気温の差が大きいですから皆さま、ご油断なきよう。
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HP通信NO.363/ 2014.10.1 出発の一番寺「霊山寺」にて。9.17(水) 「四国お遍路」より一昨日、無事に帰って参りました。 家を出たのが11日ですから18日間留守にしたことになります。 どこからどうお話しようか、と悩むくらいたくさんの「想い」と「思い出」を得ました。 お遍路の道中や、宿では、幾人もの人と顔馴染みになります。 お遍路の出発が大体同じ頃だと、私の前後交互を互いに行き交うことになります。 帰宅しお遍路に思いを馳せると、彼ら、彼女らは「今どこを」「どんな状況で」歩いているのだろう、などと思います。 今でも私はあの人たちと一緒にお遍路を続けているような気持ちにもなります。 それは感傷ではなく、一種のノスタルジアです。自分の原風景に近いような・・・・・。 生活習慣も朝6時食事、7時出発(食事が7時で8時出発の時もありましたが)というタイムが身体にセットされて、 帰宅後も朝早くから快調に目覚めることが続いています。 本当に規則正しく健康的な毎日でした。 とにかく順序を追ってお話しましょう。 大分市で3日間に亘るコンクール審査を終えた15日、大分市の女声合唱団ラ・シーヌの皆さんの練習場に伺いました。 来月コンサートで私の「ラブ・ストーリー」を演奏して下さるのでその練習にお邪魔したのでした。 ラ・シーヌの皆さんとは’05年、「Ave Maria」を委嘱・初演をしていただいた関係です。 練習後、役員の方々と昼食、四国へと旅立つ別府観光港まで送っていただきました。 左端が指揮者の猿渡健司先生、右お二人目がピアノの後藤加奈恵先生。 「行ってらっしゃ〜い」と見送られてフェリーに。 フェリーは四国・愛媛八幡浜港へ。約2時間30分の船旅。 八幡浜港には宮本欣子(よしこ)先生が待っていて下さいました。 その夜、今年の6月にコンサートでご一緒した「ジェントル ゲザング」を初めとする皆さんたちと「大洲市」で歓迎懇親会。 坂村真民記念館・西澤孝一館長・真美子ご夫妻も松山市隣の砥部町からお越し頂きました。 私の手にあるのは「念ずれば花ひらく」のスクラップ。リュックに付けました。 その日は大洲郷土資料館併設のユースホステルに泊めていただきました。 後列左からジェントルゲザングのメンバーでありご主人赤松一郎さん、私のお隣が藤原章司さん。 前列、左、今回お遍路をご一緒いただく宮本欣子先生、赤松さんご夫人玲子さん。 藤原さんには愛媛県から徳島県の出発寺の霊山寺近くの宿まで車で5.6時間かけて送って下さいました。 徳島市内の阿波踊会館にて、阿波踊りも見学させていただきました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さてさてここからが「四国お遍路」の旅の始まり〜。 第一番霊場「霊山寺」で「お遍路グッズ」を揃え、いざ「出立」。 私の首からぶら下げているのは「ズタ袋」。これは母親に作ってもらいました。 この中には、お線香やお経の本、メモ用紙、納付用の札などが入っています。 高松混声合唱団・団長の西池孝一さんが、見送りに来て下さいました。 そもそも此の度のお遍路敢行は香川県・高松の高松混声から委嘱を受けた作品「巡礼をテーマ」にした作品についてほぼ2年に亘り 考えてきたことでしたが「やはり歩かなければ先へ行けない」というドンヅマリ感から始まったことでした。 以前このHPでも記しましたが、愛媛の(今回同行して下さった)宮本先生とお会いしたことで「背中」が押されました。 歩き出してみると、上の写真のような国道沿いの脇の道の何の変哲もない道で「ヘエ〜、これが遍路道〜?」。 しかしそれは単なる序章。歩く程に景色が変わって行きます。 道の脇には、常にこのような標識がありました。 「遍路ころがし」という最初の難関3日目「第12番焼山寺」の入り口=第11番藤井寺にて 噂に聞いていましたが、よくぞ「遍路ころがし」と名付けたものです。まさにその通り。 山道を這うように登ったり、自然で削られた土、石ころの道?を下ったり6時間歩き通しでした。 3つの山を越えます。 「焼山寺」にお参りをしてから麓に降りるのにも山道4Km。 普段から「歩き」は鍛えているものの、山道となると別です。 その夜は「筋肉痛」で悲鳴をあげました。 焼山寺を越えた翌日、第13番大日寺に向かうために早朝7時に出発して山越えをしました。 上の写真は峠からみた世界です。 四日目が身体が一番きつかったです。 足はもちろん、7〜10Kgの荷物を背負っていますので、背中、腰など大分凝りました。 しかし身体は慣れるものです。 さらに「四国霊場」というだけあって、前日「もうこれ以上歩けない〜」のはずなのに、翌朝になるとまた歩けるのです。 これは私一人の感想ではありません。お遍路さん皆さんの実感です。 5日目頃になると若干慣れたせいもあり余裕が出てきます。 亡き妻のことを想い、今年2月に亡くなった父のことを考え、様々な想いを胸に歩きました。 呼び出すと、私のそばに寄り添い、私と一緒に歩いてくれていそうに感じました。 これは「感傷」ではなく「四国霊場」だからこその体験といえるでしょう。 上のシールはお遍路さんにとって「救いのアイテム」なんです。 地図を見なくともこの矢印道りに進めば、目的地に着くことができます。 7日目にして徳島県の最後のお寺、第23番「薬王寺」に到着しました。薬王寺から観た街並(美波町)。 次第に顔馴染みとなった人たちとは打ち解けていろいろ話すようになります。 お遍路の事情は皆さん様々です。と言って、格別語るわけでもなく聞く訳でもありません。 徳島県の最後の寺を巡拝したお祝いに、顔馴染みとなった方々と祝杯を上げました。 歩き始めて8日目に高知県に入りました。
こうして室戸岬を越え、岬の反対側を歩き奈半利(なはり)町まで歩き翌朝「土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線」で高知市に入りました。 しめて11日間、300Kmは歩いたことになります。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 今回ほんとにわずかな日数でしたが、ほんの少しでも「四国お遍路」の世界に触れて大きな啓示を受けた思いです。 「四国のお遍路」をこれまでどのくらいの人たちが歩いたでしょうか。 私は自宅に帰りまだ4日目です。ですが、今でも「あの風景」の中にいる錯覚を覚えます。 私と一緒に歩いた人たちは今も歩いている筈です。 足にマメが出来、歩くのも辛そうだった函館のSさん、厚木市のハチマキ姿のIさんは、このハチマキには奥さん、 孫たちの期待が込められているので簡単に帰れない、と言い、沼津のMさんも自由になったから、と。 その他に、札幌市のOLのSさん、島根のお坊さんのHさんなどなど。 今、彼ら彼女らはどこをどういう状況で歩いているでしょう。 全日程を歩くなら42.3日はかかるということです。 Sさんのマメはどうなったでしょう。野宿専門のHさんは元気でしょうか。 私の前をフラフラして歩いている人がいました、Hさんです。寝ながら歩いていたのです。 私が「ワッ!」と驚かして目を覚まさせてあげました。 昨夜は屋根付きのバス停で寝たとか。 その日、私が泊まる宿に彼は風呂だけ使いにきました。 「今日も野宿?、だったら私の部屋の床ででも寝なさい」と言って部屋に連れてきました。 互いに疲れているのですぐに寝ました。 でもすぐに寝たのは「彼だけ」・・・・彼は28歳。彼は何処ででも寝れるのですね。 「あまりに元気な寝息」で私は寝れませんでした。 翌日は、帰る日と決めていたので寝不足もしょうがないと肝を据えて一晩過ごしました。 たくさん思い出ができました。 そしてたくさんメモを取りました。 詩も書きました。 将来、この10日間を思い返す時「私は今でもあの風景の中を歩いている」ような気がすると思います。 巡礼をした人どの人も「あの遍路」の道を踏みしめそれぞれに自分の影を落としてきました。 「人の想い」の積み重なった「塊」を「霊」と言うなら、四国はまさに「霊場」なのです。 そしてそこにまぎれもない「自分」がいることを思い返す筈です。 その自分とは「本来の自分」です。 今回、綿密なスケジュールを立てて下さり、ご同行中たくさんのお心遣いを下さった愛媛の宮本欣子先生にこの場を借りて厚く御礼を申し上げます。 またいつか、残りの「お遍路」を続けたいと思っています。 此の度の多くの経験を、私なりの想いを新しい作品に託したいと考えているところです。 実際作曲に入るのは来年になってからです。 少しずつ「お遍路」の日々を振り返りつつ練っていこうと思っています。 歩き最終日、朝7時半、室戸岬のロッジを出ると朝日が海にキラキラと輝いていました。 この日、約30Kmを歩いて奈半利にたどり着きました。 しばらくは「お遍路」の余韻に浸ることでしょう。 帰宅してから毎日のように未だに10Kmは歩いています。 これまでは「お遍路」の準備のため、今は「巡礼」の意味をかみしめるために歩いているみたいです。 今回のお遍路さんの旅を応援下さった皆さんに、無事の帰還をご報告するとともにここで改めて感謝を申し上げます。
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HP通信NO.362/ 2014.9.8
朝方は、幾分涼しくなってきました。 蝉がまだ啼いています。 今朝の蝉は「息絶え絶え」で「最後の声を振り絞って」いるかのようでした。 「明日はあの蝉の声、聴けないかもしれないナ〜」などと、今朝方、ぼんやり窓の外を観てました。 前回のホームページでは「お盆のお墓参り」そして「高校野球」の話題をしていたのですから、 更新に随分と時間がかかってしまったことになります。 前回の更新が8月22日。本日更新をしていますが、その間、家にいた日はわずか4日(本日を入れて)のみ。 今回は仙台で少し仕事をしました。 今の時期はコンクールの審査が多いのです。 行った先は宇都宮市、岡谷市、仙台市、など。これから九州にも参ります。 コンクールで忙しくする年もありますが、作曲に集中するためにまったく「夏籠り」をする年もあります。 とにかく、夏は何やかとせわしい季節ですね。 夏が過ぎると今年もラストスパートをかけたごとく、あっという間に師走になります。 夏とはそういうものなのですね。 ですので、若い時から夏は必ず何かの目標を持ったものです。 世界名作文学を何巻も読んだり、仏教の「唯識論」を一夏勉強したこともあります。 時には、ドラクエを後略する目標を立てたこともあります。 夏は「ボヤーッ」としていたら「あっという間に」終わってしまいます。
ただ今取り込んでおりますので今回は、この辺で失礼いたします。
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HP通信NO.361/ 2014.8.22
夏の甲子園初出場の「利府高校」は2回戦まで行って敗退しました。 でも立派なものです。今後の活躍に期待したいものです。 今年のお盆は父の「初盆」でしたので、久しぶりに利府に滞在しました。 この日、8月13日、さいたま市から美智子の友人北條静さん、榎本ひろみさんが墓参りにお出かけ下さいました。 この「慈しみの像」を前にするといつも「会いに来た」という感じがします。 「頬」そして「手」に触れると石から温もりが伝えわってきます。 お二人をこの後、塩釜駅近くの地元の人で賑わう「寿司店」にご案内しました。 「さすが〜塩釜」とお二人ともご満悦で、さいたま市に帰って行かれました。 昨年のお盆は私は入院中でした。 ここでも何度か書きましたが、突然の脳梗塞にての緊急入院。 誰にも知らさず、初めは軽い症状で入院したものの、医師からは「脳梗塞というのは急変して死に至ることもある」と脅かされつつ、 本当に心細い思いをしたことを今でもまざまざと思い出します。 あれから一年、当時、若干シビレを感じた手足でしたが、今は殆ど意識することもなく過ごせるようになりました。 ある人が言ったことが思い返されます。 成功する人間の3つの条件とは。 「運が良いこと」「悪妻を持つこと」「病気をすること」だそうです。 「悪妻を持つ」ということは意味深ですね。これはまた後ほど。 しかし中国のある本によると、成功する3つの条件とは「運」「鈍」「根」といい(これもまた後ほど)、 「根」とは「良妻を持つ・家庭を持つ」という意味があります。 つまり「根を張る」という意味合いがあります。 「悪妻」「良妻」と、成功の条件にしては両極端。(これもまた後ほど) それはともかく「病気をする」ことで、それも「生き死に」を経験することで人は変わるもののようです。 今でも昨年の今頃のあの病院の「風景」を思い出します。 「不安」な気持ちでトボトボと病院内を彷徨っていた姿を今でも思い返します。 病院内の匂いまで思い出されます。 忘れられない風景ですが、時折、意識して「思い出す」ようにしています。 月並みですが、こうして生きていられることの感謝を思います。 今日があって明日があることを信じられることへの感謝です。 「昨日までと今日とでは、人生への感じ方が違う」ということも初めての経験でした。 そういう意味では「病気をすることは」上でご紹介した「人生の成功の条件」のひとつと言えるかもしれません。 「運は」お分かりでしょうが「悪妻を持つ」は皆さん共感されるでしょうか、それとも「根」?。 ところで上で「鈍」というのがあります。ついでながらお話します。 「鈍」とはまさしく「鈍い」ということです。 世阿弥の「花伝書」の中にこういう一節があります。 「佳き細工は、やや鈍き刀を持ちうるべし」と。
暑いのでいつ見てもグッタリ〜。 今のマノンは静かにOさんのお宅で暮らしています。 それを見て私も安心してアチコチに出かけられるというものです。 来月中旬からの四国歩き遍路に向かって、着々と準備をしているところです。 残暑厳しき折、皆さまには熱中症などご注意の上、健やかにお過ごしになりますよう。
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HP通信NO.360/ 2014.8.10
いつもの暑い夏になりました。 更新を早くしなければ、と思いつつまたまたこうして時間が過ぎてしまいました。 前回更新をしてから本日まで家に居たのがわずかに4〜5日。その間、あっちこっちと出かけておりました。 これまでパソコンとそのソフトで私はいくらお金を使わされたでしょうか。これは私だけではないでしょう。 日本の企業は消費者にとって大変親切な対応をしていると思います。 しかしこのままでいくと、いずれ日本もアメリカナイザされた社会が当たり前になる時代になるかもしれません。 「スマホ」などその良い例。 私たちの気付かない内に「脳が侵略」されていっています。 会話が途切れる、会話の途中で検索など必要ないのに、人と人との会話がなおざりにされる、それが不自然ではなくなっていく、 人と人との距離感が離れて行く、答えがすぐそこにあるから考えない、思考しない、スマホが手元にないと落ち着かない、 まるで中毒のようになっている、電車の中でスマホを手にしている人の姿の何と多いことか、本を読んでいる人が少ない、 人と交流しなくとも退屈は凌げるし、情報も必要なものが入る、 ・・・・・・知らず知らずのうちに「脳が侵略」されている「コワサ」に私たちはもっと気付くべきです。 次第に人とのコンタクトが出来ない人間が増えて来ると思います。 今は子供たちには夏休み。しかし近所で子供が遊んでいる姿を殆ど見ません。 次回の更新はなるべく2週間を待たずに更新するつもりです。 どうか暑さ対策をしてこの夏を乗り切って下さいますよう。
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HP通信NO.359/ 2014.7.27 連日猛暑です。私はテレビをあまり観ていないものですから「梅雨」はもう上がったのでしょうか?、 などと言うと笑われそうです。 先週は関西方面にしばらく居りました。 20日は枚方市のパナソニック合唱団の練習場を訪ねました。 指揮者は中央に立っておられる本城正博先生。 私の横に座ってらっしゃる方がピアニストの平林先生。 総勢7.80人で、年代も幅広い厚みのある合唱団です。 曲は「永訣の朝」と「雨ニモ負ケズ」。 宮沢賢治の作品を二作品並べて9月6日に大阪シンフォニーホールで演奏されます。 合唱の洗練されて何と素晴らしいこと!。 本城先生には過去にも「永訣の朝」の名演を聴かせていただいております。 是非、お近くの方、お出かけ下さい。 この日の午後は京都「ふじの花」のコンサートが京都コンサートホールでありました。 ですから朝早く大阪に行き、急ぎ京都に戻り、というスケジュール。 「ふじの花」の演奏会では「民話」「二度とない人生だから」(全曲)などが演奏されました。 指揮は富岡健先生。 富岡先生はご自身の指導されているいくつもの合唱団を5年連続でおかあさん全国大会に出場させています。 関西を代表する指揮者です。 私は「ふじの花」とはもう15年以上前、前指揮者故竹上広子先生からのご縁です。 竹上先生のことはここで何度もご紹介していますが、 先生の委嘱で「二度とない人生だから」が世に送り出されました。 竹上先生とのご縁はそもそも「民話」から。 「民話」のような親しみやすい曲で「仏教の心」が伝わる曲を、というのが先生の依頼時の希望でした。 今回の演奏会では「民話」「二度とない人生だから」が並べられて演奏されました。 またそのステージのアンコールでは「ふるさとの木葉の駅」を指揮しました。 この曲は竹上先生の追悼のために作曲したものです。 まさにこの合唱団とのご縁そのもののようなプログラムでした。 全体の最後のアンコールでは「二度とない人生だから」を会場の人たちと一緒に歌いました。 「先生の願い通りに今多くの人に歌われていますよ」と竹上先生にご報告するようなコンサートとなりました。 このコンサートの時の写真は残念ながらまったく撮っていなかったのです。 打ち上げ、そして二次会はジャズシンガーの元団員Oさんのライブも楽しく賑やかに過ごしたのですが、 あまりに楽し過ぎて、うっかりでした。 ふじの花の皆さん、ごめんなさい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 先日盛岡の友人澤口さんからメールをいただきました。 澤口さんは「永訣の朝」初演時以来の友人です。 今度、バチカンにもご夫妻で来て下さいます。 私がバチカンで初演する曲を完成させた、と報告したことに対する「おめでとう」という返信でした。 その中で懐かしいことを思い出しました。 「永訣の朝」初演の後、私は澤口さんにこう言ったそうです。 「初演を聴いて、この作品を良い、と言ってくれたのは澤口さんを入れて4人だけでしたよ」と。 たしかに覚えています。 亡き美智子と子供の頃からのヴァイオリンの恩師藤倉先生(現在、庵主(あんじゅ)さま)、 そして今でもお付き合いのある大内さん(元高校教師/ピアニストでもある)、そして澤口さん。 澤口さんのお手紙には次のようなことも書かれていました。 「あれから40年、今度はバチカンから全世界の人に鈴木さんの音楽が発信され、 <日本人が作った静かな祈りを持った作品>がミケランジェロの絵画が見守る大聖堂に響き渡る。 その響きの中に私も立っていられると思うと心が震えてきます。」と。(要約) 「永訣の朝」は40光年の彼方から今でも光を発しています。 その中には「その時の思いがタイムカプセル」のように詰まっています。 これは作り手として冥利と言えるものでしょう。 バチカンの練習も東京・京都と、少しずつ進んでいっています。 昨日も東京は2回目の練習でした。 長崎、宮崎、福岡、長野、と遠方よりも参加いただきました。 現在、合唱は75名です。他に応援でご同行下さる方も結構おられます。 ただ今のシーズンはコンクールやイヴェントで旅行が多くなります。 毎年のことですが着るもののクリーニングなど、雑事に振り回されるのは独り身としては「やむなきことかな」です。 なるべく間をあけずに次回の更新をしたいと思います。 ちなみに19日あたりにカウントが「28万」を越しました。 暑いですからくれぐれも熱中症などにお気をつけ下さいますよう。
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HP通信NO.358/ 2014.7.14 今月になって鹿児島、北海道、仙台、宇都宮、と歩いてきました。 その都度、写真を携帯で撮っていたのでしたが、あいにく携帯の故障でデータを呼び出せません。 今回は写真をご紹介できないのが残念です。 携帯の故障でメールアドレスなどのデータを使えずにいます。 直って戻ってくると良いのですが・・・・・・・・。とにかく不便です。 あちらこちらに参りましたのは勿論仕事です。 北海道は北見市(網走市の近く)、北海道おかあさんコーラス大会が行われました。その講師で参りました。 理事長の永易孝一先生には北見市近辺の名所、またオホーツクの海を見せていただきました。(折角の写真をご紹介できずに残念です) 鹿児島では来年の国民文化祭に関する打ち合わせ。 これは昨年からお話があったものですが、自分の仕事のペースに急遽割って入ったものです。 最近は私は仕事を受けるにしても「(締め切りに)余裕を持った」受け方をしています。 しかしそうはならないのが現実というものです。 そんな時に恩師「伊福部昭先生」の言葉が頭をよぎります。 「ダム建設の予算を立てる時にどういう予算の立て方をするかというと、 この工事では<何人の人が亡くなるか>ということも頭に入れて予算を立てる」。予定を立てるとはとそういうことだ、と。 さらに借金の仕方まで教わりました。 例えば「年末までに借金を返済できる」と思ってもそうは言わないで 「来年三月までに返済する」というのが「上手な借金の仕方だ」とも。 そうすると信用が増すものだよ、とも付け加えられました。 これはすべて仕事の受け方について教わったことです。 私は恩師「伊福部昭」から手を取って楽譜の書き方を教わったことなどありません。 上のような人生訓、さらに作家論を学びました。 先日四国・高松で私の親しくしている高松一高の大山晃先生が「伊福部昭の宇宙」と題するコンサートを催しました。 伊福部ファンなら垂涎(すいぜん)のプログラム。 伊福部先生の作品は頻繁に演奏されるものではありません。ですが、本当に立派な作品がたくさんあります。 こうして先生の没後、作品がなお生き続けている様を見るのは弟子としてファンとして嬉しいことこの上ないことです。 こういうことも教わりました。 「今、演奏されなくとも必ず後で聴くことができると信じて作品を作り続けなさい」とも。 当時「地蔵礼讃」を作曲していました。どこでいつ演奏されるのか分からないままに作曲していたものです。 この作品を聴く度に、その当時の思い、そして先生の言葉が懐かしく思い出されます。 「伊福部語録」の中で今ひとつ思い出したのでご紹介します。 私が作品をM先生に見てもらった時、かなり手厳しい批評を頂き、そのことを伊福部先生にお話したら・・・・・。 「(M先生は伊福部先生の弟子)私はM君をそのようには育てなかった。作家を育てるというのは大木を育てるようなものだ。 その後で枝を切ればよい。盆栽を育てるようでは駄目なんです」と。 私はその言葉に大変感動したことを昨日のように覚えています。 その他にもたくさんの薫陶を得たことは幸せなことと今更のように思います。 昨日(13日)、宇都宮で講習会があり(宇都宮市民芸術祭<合唱フェステイバル>)、荻野久一先生とお目にかかりました。 先生は栃木県の重鎮。いつも若々しく、常に私に親しくお話下さる先生です。 (下の写真は現在修理中の代替えの携帯で撮影したものです) 荻野先生は昔から「大相撲仙台場所」を是非実現してほしいと言われています。 この日、荻野先生と控え室で期せずして伊福部先生のお話になり、私の勉強してきたことをお話しました。 私の師事した師には、みな私がトントンと門を叩いて教えを請いました。 指揮の山田一雄先生、團伊玖磨先生。 また東京音大では当時学長だった伊福部先生のお許しを得て、私が勉強したい授業を何でも受けて良い、 というお墨付をいただき松村禎三先生のゼミ、管弦楽法の池野成先生の教室、特別ゼミの湯浅譲二先生などなど、 本当に良い勉強を経験をしました。 私のような勉強の仕方をした人はそう居ないかもしれません。 伊福部先生のことを最近とみに思い出すのは、上でご紹介したコンサートのこともありますが、 やはり北海道でオホーツクの海を見たことにも依るかもしれません。 北海道時代のお話も先生からよく伺っていました。 たとえば林務官として務めておられた頃、漁民は昆布を取るのに「ある木」を重宝したそうです。 この木は「海に入れても泡が出ず昆布を採取しやすい」木らしいのですが、そもそもこの木を切るのは御法度。 しかし先生は「見て見ぬふり」をしたということです。 やがてその漁民の人たちから歓待を受けた時、先生はお礼にヴァイオリンを演奏したそうです。 曲はたしかシューベルトのAve Maria。 初めて聴くヴァイオリンです、聴き手の漁民の心に本当に沁み入るのを先生は感じたということです。 そしてこう言われました。 本当に良いものとはこうして人の心に響くものなんだよ、と。 伊福部先生の思い出話は尽きません。 指揮の山田一雄先生は伊福部先生の作品をよく取り上げておられました。 私はよく両先生とご一緒させていただいたものです。 こうした経験もまた得難いものでした。 そして宝です。 今回は伊福部先生の思い出を書きました。 そうそうやはり「ゴジラ」が近いうちに上映されます。 これでもまた伊福部先生を思い出した次第。 子供の頃、夏休みになると近くの映画館で怪獣映画を楽しみしていました。 その頃からです。「音楽 伊福部昭」という名前が頭に焼き付いていました。 新作の準備も常に頭にあるものの、なかなか遅々として前に行きません。 「そのうち何とかなるでしょう」などと悠長なことを言っていると天から見えないゲンコが頭にコツンとくるに違いありません。 最近、人さまには「楽しいことが一番ですよ」などと言っているものですから、 私も楽しく「ものを作る辛さ」も凌いで行こうと思っているところです。 次回の更新は今月末になります。 暑くなりますから熱中病などにお気をつけ下さい。
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HP通信NO.357/ 2014.6.29
この6月は仙台に3回行きました。 23〜27日も仙台におりましたが、東京は天候が大変乱れたようで、仙台は連日穏やかな日でした。 もうこのような天候異変には驚かなくなりました。 このような感覚ってじつはとてもコワイことだと思うのです。 初めて見たり触れたりしたことで「とても驚いた」ことがいつの間にか当たり前になっている・・・・・ 例を出せばキリがありません。 バチカンで初演する「3つの聖母マリア賛歌」が完成しました。 3曲ともそれぞれ3分ほどの小品ですが、3つの作品の完成に4ヶ月費やしたことになります。 ラテン語は世界で「通じます」。 「通じる」というよりキリスト教の世界では祈りの言葉はラテン語です。 これまでキリスト教の歴史とともにどれほどの「ラテン語による聖歌」が作られてきたでしょう。 今回、初めてラテン語による聖歌を作ることとなり、つくづく考えることばかりでした。 結果、「日本人の作った歌らしい歌」「静かな祈りをもった作品」になったかと自負しています。 毎日毎日、自然に囲まれた環境の中で歩きながら作っていきました。 「作っていった」とはちょっと違います。 「次第に実が熟すように、生まれでて来るのを待つかのように」送った日々でした。 ですから、ピアノで音を探るようなことは一切なく「私の内で音が満ちようとしたとき」(かなり気障な言い回しですが) 初めてピアノに向かいました。 ですから大分時間がかかりました。 この作品は早速カワイから刊行される予定です。 また「献呈」にあたり、「自筆」の楽譜を作るつもりです。 普段はPCで打ち出した原稿です。自筆で楽譜など10年以上も書いてはおりません。 久々に手書きで楽譜を書きます。 ローマ法王に献呈する楽譜そのままを(コピーですが)今回バチカンにご同行下さる方々に差し上げたいと思っています。 まだこれは皆さんにはお話していません。きっと喜んでもらえるのでは・・・・。 6月27日、池袋芸術劇場地下リハーサル室で行われた第一回目のバチカンコンサートの練習。 この日は東京近郊の方の他にも、長崎、山形/酒田、秋田、長野/諏訪、など遠方より25名前後の方が参集して下さいました。 練習曲は新作の「3つの聖母マリア賛歌」。まずは2曲を譜読み。 皆さん熱心に取り組んで下さり「新しい作品が次第に仕上がっていく様」に自身で作ったものながら感動してました。 今後の練習下に記してあります。(関係の皆さま、ご確認下さい) 28日は新潟の長岡市の「みつ葉」のコンサートにお邪魔をいたしました。 指揮は石坂貢治先生。 石坂先生とコンサート会場で。何ともボケてしまいスイマセン。 先生は仙台一高の音楽の先生でした。私は東北学院の学生でしたが、 市内高校生で構成される「仙台ユース・シンフォニーオーケストラ」に高校一年で創設時から参加、石坂先生はその顧問でした。 顧問といっても雑用係のようなことで常に私たちを支えてくれていたのが石坂先生です。 私はその後仙台から東京に移りますが、石坂先生も仙台から長岡市に移られました。 その後、音信は途絶えますが、ある時から先生との交信が始まります。 それはこういうことでした。 「コーラスを指揮していて<鈴木憲夫>という作曲者の作品をよくやるんだけど、それが貴方だったとは・・・・・」と。 それが今から15年程前だったと思います。 長岡市には先生の関係するコンサートで9年前に伺っております。 その時の長岡市はその前年におきた地震の影響で町はまだ復興できていませんでした。 その当時、私は「Ave Maria」を作曲しており、家内も病院通いはしていたものの元気でした。 そんなことがふと思い出されます。 先生は元々はテナー歌手。 長岡市で「歌曲研究会」を立ち上げ「遠音」(とほね)という機関誌も主宰されています。 昨年、その中で私のこともご紹介して下さいました。 クリックすると本文紹介 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 昔からこのホームページをご覧下さっている方々から「マノンは元気ですか?」というお便りをいただきます。 そういうことで今回久しぶりにマノンを登場させました。 マノンは元気です。私は毎日のようにマノンのところに会いに行きます。 マノンの居候先の「大橋さん宅」はマノンにとって最高の居心地のようです。 大橋さんご夫妻の優しさの中で、マノンは幸せそうです。 マノンは私のことをどう思っているのか? ネコは何かを考えているようで実は「ナンニモ考えてはいない」生き物なのです、ヤッパリ。 作品を完成させたと言っても若干の見直しもあり、参加の皆さんにお送りするのにはまだほんの少し時間がかかります。 「配剤」という言葉あります。「ほどよく配合する」という意味合いです。 作品を作っている間はそれにかかりっきりですが、それが終わるとまるで待っていたかのように次の「所持雑用」が待っています。 私は時折思うのですが、亡き家内があの世で「私のマネージャー」をやっているのではないか、と(笑)。 その「配剤」にどんな因果があるのだろうなどと考えることがあります。 それは「人生においても」言えることです。 坂村真民さんの詩に、 「いろいろのことありぬ いろいろのめにあいぬ これからもまた いろいろのことあらん いろいろのめにあわん ・・・・・・・・・・・・・・・・後略「つゆのごとくに」より 出会うこと、様々な人との出会い、様々な出来事、もちろん仕事との出会い、悲しみに出会うことももちろんあります。 それらは偶然でしょうが、しかし偶然と考えずに「天の配剤」と考えたときに「今の自分が見えそうにも」思うのです。 今回のバチカンにしてもそうです。 バチカンからの要請がなければラテン語で宗教曲など書く機会はなかったはずです。 これまでの海外の公演でも「日本語で私の作品をやってきました。」 今回の作曲で私は「多くの目」が開かれたような気もしています。 ラテン語ですが「やっぱり鈴木の書く音は日本の歌だナ〜」という音楽を作りたいと、 そしてクリスチャンではない私ですが「神への崇高な祈りを捧げる」音楽とは、などを考え目指しました。 まずは作曲が一段落しホっとしていますが、次の作曲のヨ〜イドンでもあります。
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HP通信NO.356/ 2014.6.12
梅雨になりました。 いつもながら「ハッピバースデイ <ツーユー>」の季節になりました。 これを毎年コールベルの皆さんに「さあ歌いましょう」と強要するものですからいつも「ひんしゅくもの」です。 梅雨の晴れ間の7日に四国・高松市に行って参りました。 高松混声合唱団の演奏会を聴くためです。 それと只今委嘱を受けている仕事が遅れているのでその「言い訳とお詫びに」。 本来なら、今の時期に完成していなくてはならない作品です。 しかし、11月のバチカンコンサートために新作を書かなくてはならなくなり、 そのため「高松混声」の皆さんとの約束を大きく違えることになってしまいました。 その「お詫び」を申し上げに高松に伺ったわけです。 私のお隣が指揮者の中尾先生、私の前の青いシャツの方が指揮、ピアノの岡橋先生、そのお隣がピアノの渡辺先生、 私の後ろの女性が指揮の岡橋先生の奥様のピアノの智栄美先生。 後ろで立っておられるのは(黒服)京都の箸尾哲男先生。箸尾先生は高松混声の皆さんとも交流があります。 コンサートは盛会で素晴らしい内容でした。 年々レヴェルアップしている様子を拝見し、頼もしく、嬉しくも思いました。 さてさて新作ですが、テーマはもちろん四国に関するものです。今回もやはり自身でテキストを書かなくてはなりません。 「そういう仕事の受け方はもう辞めよう」と思っているのに、またテキストからの出発です。 お引き受けしてからすでに「2年」が過ぎています。 「書く言葉」がまったく「ダメ」で、書けば書くほど「芯から遠ざかっていく」感がしています。 「やっぱり歩かないと」という思いから「歩き遍路」をすることにしました。9月中旬からまずは2週間。 それを第一回目とし、その続きは来年に実行する予定です。 この期間、コンサートなどいろいろとお約束していたことに「不義理」をすることになります。 早々と今の段階でお詫びを申し上げます。 前回のHPで愛媛・松山の様子をここでご紹介しましたが、その折ご案内を下さったのが宮本欣子先生でした。 宮本先生は「歩き遍路」の経験者。 それがきっかけで「歩き遍路」を決断しました。 一緒に歩いて下さるそうです。 最近は毎日「8Km」は普通に、時に「10Km,15Km」と歩くことも珍しくなくなりました。 少々の雨でも傘をさして歩いているのです。 作曲も順調に進んでいます。この調子ですと今月中には完成することと思います。 バチカンコンサートの練習もこれから開始ですので、まずは予定通りに行きそうです。 女声合唱作品でア・カペラの三つの小品です。皆、短い曲です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ あちらこちらと出歩いていますが、体調はすこぶる良く、健康です。 しかし5月頃から「喉」の調子が良くなく、耳鼻咽喉科に通ったりしております。 「喉がイガイガ、荒れる、咳き込む」など、今は大分良いのですが、まだまだ多少の違和感があります。 原因? 原因は実は私の生活にあるのです。 鳩山に在宅している時は「人と殆ど話しをしません」。まったくです。 スーパーのレジのおばさんに「袋下さい」というくらい。 そうして仕事で外に出かける時、とくに指揮をする時などは「大きな声」を出します。 そのギャップでいつも私の場合は「喉」に負担がくるのですね。 普段より「程よく」喉を使っていれば良いのでしょうけど。 その「程よい」というのが難しいのです。 つまり私の場合は普段から「しゃべっていれば」いいのです。喉を使えばいいのです。 が、独りで「しゃべる」と言うことは「独り言?」・・・・・。 マノンがいた頃は何かとしゃべっていたかもしれません。 しかしですね、「独り言」となると「異常な世界。 今回のように作曲で家に籠ると尚のこと「喉も静かな環境」で生きていることになります。 「程よい」というのは難しいことです。 言葉を換えれば「中庸」。 仏教の言葉ですが、「弦の張り具合」の例えが有名です。 「弦を張りすぎれば切れる」「弦を緩めすぎれば音は鳴らない」・・・・・・。 このように両極を知っての上で、「程よい」ところが「中庸」なのです。 決して「平均値」という意味ではありません。 今の時代、そして若い人たちには「程よい」や「中庸」という意味は理解しにくい「事柄」かもしれません。 よく「勧誘の電話」や「その他の電話」を通して若い人たちの対応でよく思うことですが、 「人との距離間」が「保てない」「分からない」という印象を私は強く感じます。 「応対マニュアル」などその手本です。 ちょっとやそっとではもう驚かなくなっていますが、最近こういうことがありました。 駅でお土産を買った時の話。 店員さん・・・「ちょっとお包みしますのでその分少々時間を頂いてもよろしいですか?」 ワタシ・・・「アゼン!」 つまり「返答しようがない」のです。 これが「マニュアル」なのか若い人たちの個性というのか「相手に返答させない」が「常套手段」かのよう。 「○○じゃないじゃないですか?」・・・・という話し方をよ〜く耳にします。 これは相手から「ノー!」と言われたくない気持ちを表しています。そのように言われれば「イヤ」とは言いにくい。 また最近あるラーメン店に入って「○○〜〜」と注文をしたところ、 「のちほど伺いますからそのときまとめてお願いします」・・・・???。 自分のペースでしか人と応対できない、つまり人との距離感がつかめない、こんな若い人たちが増えてきているようです。 「スマホ文化」との因果関係、大いに関係アリと私はみているのですが・・・・・・・・。(これはいずれかまたの機会に)
今回も「程よい」から大分脱線飛躍した話になってしまいました。
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HP通信NO.355/ 2014.5.29 日一日と穏やかな気候になって参りました。 梅雨の前の今の季節がもっとも過ごしやすいかもしれませんね。 庭の紫陽花もほどなく大きな花を咲かせることでしょう。 今月17日、18日、19日、と、四国・松山市周辺を歩いてきました。 そもそもは、松山市より南の西予市(せいよし)で活躍する男声合唱団「ジェントル ゲザング」(略してGG)の演奏会に 招(よ)ばれたのがきっかけでした。 曲目は組曲「二度とない人生だから」。 指導の宮本欣子(よしこ)先生は坂村真民記念館でボランテイアガイドも務めておいでとのこと。 もちろん記念館にもご案内下さる、しかも、道後温泉にもご案内する、ということであれば断れるはずがありません。 普通に一人で楽しみに伺うつもりでおりました。 が、昨年11月の京都コンサートホールでの「鈴木憲夫の世界」(指揮:箸尾哲男)の折に、打ち上げで周りにいた方々に 「来年、坂村真民記念館で二度とない人生だからを歌わな〜い」とお誘いしましたら、 「私も」「私も」「行きたい」、との声の広がり、結局松山市には福井から「ゴールデンエイジふくい」 京都から「ふじの花」、箸尾哲男先生ご夫妻などなど、約7.80人の人が集結。 そして18日の「ジェントル ゲザング」のコンサートには私の指揮で「二度とない人生だから」を歌うために 四国各地からも応援にかけつけてくれた180人ほどの人たちで高らかに歌い上げられました。 以下は皆さんとの交流のアルバムです。 17日、坂村真民記念館内にて。前列右寄り指揮者の箸尾哲男先生、西澤館長ご夫人(坂村真民さんご三女) ワタシ、京都ふじの花の丸山千晶さん、西澤孝一館長。 後ろがゴールデンエイジふくい、京都ふじの花の皆さん、後列左はじが宮本欣子先生。 この日、この時間には福井からのメンバーと記念館で合流する予定でしたが、 何と、高速道路での事故・渋滞で彼らはこの時間、まだ四国に入っていないという情報がありました。 福井からの先着組は飛行機での到来。 この人数で「二度とない人生だから」を合唱。 朴(ほう)の木と花。真民さんは「朴」の花が大好きで詩のなかにもしばしば登場します。 会館の中庭に立つ朴の木と、野生の朴の花の一輪挿し。 夕方6時すぎになってようやく道後温泉に到着した「ゴールデンエイジふくい」の皆さん。 ゴールデンエイジの働きかけや、宿泊したホテル「葛城」の社長さまたち地元の方たちのおかげで実現した 「坊ちゃん広場」で行われたミニコンサート。(指揮:田中幸一先生、ピアノ:木津美波) 観光客の方も大勢聴いて下さり、なかには鹿児島からの方も居り、 「とても思い出深い道後温泉での思い出になりました」という声も聞かれた、とか。 「 道後温泉本館。この日土曜日だったこともあってか、多くの人で賑わっていました。 18日、館長ご夫妻には箸尾先生ともども一日名所をご案内いただきました。 「内子町」という昔の家並みが今も残っている街並を歩きました。まるでタイムスリップしたような気分に陥りました。 西予市宇和文化会館で行われた演奏会。最後のアンコールでは約180人の人がステージに立った。 「二度とない人生だから」を合唱。ピアノは宮本先生。 演奏会終了後の懇親会。 丸亀市から「丸亀男声合唱団」の皆さん、地元の「コスモスコーラス」「青い鳥コール」、 高松混声合唱団西池団長ご夫妻、他、大勢の方たちの楽しい交流の場となった。 上の写真で演奏しているのは「ゴールデンエイジ」の皆さん。 この後で再び「二度とない人生だから」を合唱。 右、指揮者の田中幸一先生。そして左が「ゴールデンエイジ」の代表の斉藤厚一さん。 斉藤さんを「福井の観音さま」と私は呼んでいる。 「音楽ほほえみ基金」でもお力を頂こうと思っているところです。今回も奥様ご同伴。 懇親会が終わった後、今度は「ジェントル ゲサング」の皆さんとの二次会。 ここでも「二度とない人生だから」を合唱。この日、本番を含めてこの曲を三回指揮をしました。 皆さんこの曲が好きなのですね。 この宴会後、西澤館長ご夫妻のご案内で再び道後温泉へ。 夜、京都から箸尾先生の奥様の響子夫人と合流。 19日、晴天の中、松山城へ。 私の後ろにはメンバーの藤原さん、菊地さん。写真は宮本先生。 城で偶然、箸尾先生ご夫妻と遭遇。 私のお隣が響子夫人。 51番札所「石手寺」 楽しく嬉しい2日3日の四国・松山の旅でした。 多くの方々とお会いしました。 ただお会いしただけでなく多くの人の「温かな心」に触れました。 それは「坂村真民」という詩人の心の「ぬくもり」が、まるで伝染するかのように多くの人の心に広がったからです。 私はこうした仕事を通していつも多くの人の「ぬくもり」に触れています。 これはとても幸せなことです。 ここ2週間は珍しく利府に行かず鳩山におりました。 独りで居りますと一日誰とも話さない、という日も珍しくありません。 つい先日の松山での賑やかさんとは「打って変わって」のギャップ。 そのギャップの大きさにはもう慣れっこになっています。 しばし、創作に打ち込んでいました。といっても毎日「歩き三昧」。 そしてようやく昨日当たりからローマ法王への献呈作品の第三曲目のスケッチに入ったところです。 それまではピアノには触れずにただ構想を練るだけの時間でした。 その時間というのがまた辛いものなのですね。 「ドンヅマ〜リ」とは私の分身のようなもの。 今ではすっかり「仲良し」になっています。 来月は利府と行ったり来たりが多く、来週は四国・高松に行きます。 次回の更新は6月中旬頃。 一日も早く作品の完成のご報告をここでしたいものです。 それでは皆さま、ごきげんよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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HP通信NO.354/ 2014.5.15
連休中は静かに勤勉に仕事をしておりました。 天気の良い日が続きましたので毎日2時間、しめて1万歩の散歩。 食事はまるで「うさぎ」が食べるような粗末で健康的な食事。 映画を一日だけ観ました。 それと近所にある「平和資料記念館」に初めて訪れました。 「いつか行ってみよう」と思いながら、いつも通り過ぎているところです。 2日は亡き家内の誕生日、そして3日は私の誕生日。 毎年「○○歳オメデトウ」とワタシ。おない歳ですのでその日だけ1歳年上になります。 そして「明日になればおない歳ヨ」と彼女。 毎年同じことを繰り返していたことを今年も懐かしく思い出していました。 誕生日の日には母に電話することにしています。 今は亡き奈良・薬師寺の高田好胤先生の教えで「我が誕生の日は母苦難の日」。 今年は「お陰さまで61歳のおじいさんになりました」と。 バチカンで演奏するローマ法王さまに「献呈」する曲は連休前に一曲目が完成。 そして二曲目は本日、下書きを完成させました。 「好調」に仕事が進んでおります。 連休中はバチカンコンサートのジェネラルマネージャーの丸尾さんがご夫人を伴って訪れた他は、来客皆無。 下は丸尾さんが作ってくれた「バチカンコンサート・ニュース」。(若干小さくて見にくいですが、参加者に配られます) 6月からの東京地区での練習に向け、新作楽譜2曲(他にふるさと、Ave verm corps)を参加者に発送するとのことです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5月10日は宮城県名取市の混声合唱団「せせらぎ」の練習にお邪魔をしました。私の隣で楽譜を持っていらっしゃる方が指揮の吉田先生。 来月8日に演奏会で「二度とない人生だから」を演奏して下さいます。 とても皆さん熱心で楽しい練習でした。 名取市は仙台の隣の町です。 私は一年中仙台と往復をしていますが、仙台の合唱団とはあまりご縁がありません。 私自身があまり積極的ではないからです。 ここ「鳩山町」に住んだ時も、友達が「鳩山町に私を宣伝してやる」と言ってくれたがことがありました。 しかし「それには及ばず」と辞退しました。 お陰さまで「鳩山」では何の「シガラミ」もなく静かな暮らしです。 最近になってご近所の方が、私の仕事が「音楽家」であるということを知っていただいているようです。 私などきっと!「怪しい」人間の部類に入る筈です。 なぜなら「家をしょっちゅう空けるし」「普通の日なのに外をプランコプランコしているし」 夏などは「白い上下の服にサングラスをかけて出かけるし」・・・・怪しくないはずがない。 このHPでも以前書きましたけど(HP通信/No.347号=2014.1.31) 私は鳩山に来た時は多くの「シガラミ」を捨ててきました。 それまでの世界とはまったく違う世界で、今は静かな世界で暮らしています。 例えば「新しく知識を増やすことさえ新しいシガラミ」を抱えることになると自身では思っています。 その裏には「これまで得た知識を元に<自身の目でモノを見、識(し)ることをせねば>」 ということが根底にあります。 「知識」という枠で知識に頼ってモノを観る時期はもう終わったとも。 インドでは人生の住む時期を「4つの段階」に分けています。 「学生期」(がくしょうき)「家住期」(かじゅうき)「林棲期」(りんせいき)「遊行期」(ゆうぎょうき)。 「学生期」は文字通り学ぶ時期、「家住期」とは家を持ち家族のために働く時期、 「林棲期」は人生に区切りをつけ静かに林に住む時期、「遊行期」これは日本人には想像も出来ないことと思いますが、 乞食同然に各地を彷徨い、巡礼地で道ばたで死ぬということがインド人の望みだと以前に何かで読んだ記憶があります。 これからすると私は年齢的にも「林棲期」。 今回のバチカンといい、またいろいろな方々と関わりを持つことになりましたが心の内は「林棲期」。 もしかしていずれ「遊行期」に憧れたりして・・・・・・・・・。
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HP通信NO.353/ 2014.4.30
いつも散歩する小径。八重桜がアーチになっています。 桜の道を歩くのは気持ちの良いものですが、 花が散ってその下を歩く時は要注意。よく頭の上に「虫」が落ちてきます。 前回の更新から約半月が経ちましたが、世の中すっかり春の色に染まり、気分までもウキウキ気分です。 が、私にとっての運気は「低迷」だったようです。 とは言いながら作曲は1曲目の「Salve Regina」をほぼ完成させました。 病気療養中の家内の親友だった秋田市に住むYが亡くなりました。 家内とは中学校からの親友。家内亡き後も何かにつけ相談を受けていました。 セカンド・オピニオンについてや漢方についてなど、私なりに力になろうとしておりました。 12日の日、危篤になり救急車で運ばれました。 その後小康状態を保ち、私も少し安心しておりましたが、15日にYが私の携帯に次のような留守電を残しました。 (弱々しい声で)「ノリオさん会いたかった・・・・」と。 急遽、秋田市に行く予定を立てました、が、17日に息を引き取りました。 お別れに秋田に行こうと思っていた矢先、ご亭主から「葬儀は行わないので来られても困る」と。 「じゃあせめてお花だけでも送らせて」という私に「留守がちだから受け取りなどの手間があるので結構」と。 まるでYが生きて来たことを「煙のように消さんとするかのような」な現実に、 私は正直目の前がクラクラ〜としたものです。 本当に「運気低迷期」とはあるもので、このことの他にも気分が暗くなる出来事が続きました。 そんな中で「北秋田市」に伺いました。 三澤由美子先生ご指導の女声合唱団「る・それいゆ」の皆さんの練習場にお邪魔をするためです。 上の写真の通り、大歓待を受けました。前夜の歓迎会では、団員の皆さまの手作り料理で、秋田の味を堪能しました。「きりたんぽ」も最高!。 三澤先生は素晴らしい方でした。時折こういう方が地方においでになるのですね。 その方を中心に皆さんとても仲良く、充実した地域活動が行われているのを見ることがあります。 ご主人様は「北秋田市」の教育長。言葉を2.3交わしただけでこの方も素晴らしい方だと分かりました。 「る・それいゆ」の合唱も充実した素晴らしい合唱でした。 「北秋田市」には2泊したのですけど、2日とも温泉でした。 私は温泉にゆっくり浸るという習慣がないものですから、いつもは「そそくさ」と出たり入ったりします。 が、新作も見通しがついたことだし、少々たまったストレスを温泉で「ほぐして」きました。 先日知人から送られて来た詩集を何気なしに開いていたら目に飛び込んできた詩がありました。 「塔 和子詩選集」より 平和 私は ギリシャ神話にこういう話があります。 人はもともとひとつの魂からできていて、それが男、女と二つに割れたので、それを探してひとつにする。 たしかそれをテーマに書かれたのが、シェークスピアの戯曲「十二夜」だったように思います。 上の詩の「かけら」とはそういう意味です。 私は家内が亡くなって随分永いこと寂しさと向かい合ってきました。 そしてその寂しさを埋めようとしたのですけど上の詩を見て、 「ひとつのかけら」は「もうひとつのかけらを」探してようやく「じんわりとひとつに丸くなって」いく、 という詩に、「寂しさ」というものについて腹の中で腑に落ちました。 ・・・・・・・・・・・・ 新作3作のうち、1曲が見通しがつきましたので、これから早速2曲めにとりかかります。 バチカンの参加ご希望の方の状況がまだはっきりとしませんので、 今後の練習の予定などはっきりしないところがあります。 ご希望の方はなるべく早くお申し込みをして下さいますよう。 次回の更新は5月中旬頃になります。 今週はゴールデン・ウイーク。 いつものように家に籠る生活をすることになるでしょう。 でもこの時期になるとウキウキ気分になるのです。 それは私の(そして家内も2日)誕生日週間だからです。 今更、誕生日が嬉しい歳でもありません。 しかしこの時期になると妙に落ち着かなくウキウキするのは、永年しみついた慣習というものでしょうか。 温かな日もあれば、急下降する気温でもあります。 こういう時期、油断は出来ないですね。 皆さまどうかご用心を。 それではまた。
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HP通信NO.352/ 2014.4.16
桜の「年に一度の晴れ姿」も見られましたし、そうすると妙に新しい季節に向け気分一転するものです。 それはワタシだけ? これは日本人特有のもののような気もするのですけれど。 4月は仙台に行くこともなく家で「ひっそり」と「真面目」に「勤勉」に「黙々」と仕事に励んでいました。 14日、15日は横浜へ。 「第6回国際シニア合唱祭<ゴールデンウエーブin横浜」に講師として招かれました。 二日間で国外からの参加も含めて86団体が「みなとみらい大ホール」のステージに立ちました。 3年前には市川の「コールベル」も参加したことがあります。 そこでは光栄にも「横浜市長賞」を受賞しました。 たしか2回大会の時も講師として招(よ)ばれたと思います。 その時と比べて、かなり大きな規模の会へと発展したようです。 ゴールデンウエーブ開催委員会 名誉会長の日野原重明先生と。御年102歳と5ケ月。 100歳を超えられても尚矍鑠(かくしゃく)として聖路加国際メデイカルセンター理事長という要職にあります。 写真を撮っていただくときに「私60になります」と申しましたら「大体私の半分だね」、と先生。 以前先生がこう話されたことを覚えています。「70.80はまだ洟(はな)垂れ小僧」。 ということは私はまだ「ヨチヨチ歩き」ということになります。 スケールの大きな話です。元気が出ます。 レセプション会場にて、新実徳英先生と池辺晋一朗先生と。 池辺先生は皆さんお馴染みの方です。ダジャレでも大変ご高名。 当夜もいつものように機関銃のごときダジャレ連射。 この写真は神奈川県の合唱連盟の理事長の松村努先生に私の携帯で撮っていただいたのですが、 私がシャッターはココと言うと池辺先生「押すだけ(オスだけ」」と。 さすが!、これまで先生の数々のダジャレを浴びてきていますけどやはり先生のダジャレは「帝王級」。 「脱毛」ならず「脱帽!」。 ダジャレの話題はともかく、池辺先生は温和で優しい方です。 私が駆け出しの頃からいつも変わらぬ態度で接して下さっていました。 これはおそらくどなたにもそうだと思います。 そういうところが池辺先生の偉さだと思います。 新実先生も皆さん良くご存知の超人気の作曲家です。 合唱祭やコンクールで先生の作品が登場しない、ということはないくらい。 時折、お会いしても気さくにお声をかけて下さいます。 常に魅力的な作品を発表しています。最近は「つぶてソング」が話題です。 「白い歌 青い歌」ももちろん、シリーズ化するというところがスゴイ!。 先生方とこうしてお酒を飲めることは嬉しいことでした。 ちなみにお二人とも酒豪クラス。 2日目のレセプション会場で会長の古橋富士雄先生と。 先生は昨年古稀のお祝いでした。私は還暦ですからちょうど10歳違い。 先生は昔から「合唱界の重鎮」の風格がありました。只今はまさに「重鎮」。 先生に頭が下がる思いをしたのは家内の通夜、葬式の時来てくださったことです。 そのお人柄が知れようというものです。 普段の古橋先生はというと「重鎮」など何のその、気さくで「軽妙洒脱」な先生です。 バチカンのご案内を出したら「バチカンに行きたいナー」と言ってくれている先生でもあります。 写真は撮りませんでしたがご一緒した副会長の桑原妙子先生、吉田孝古麿先生などには大変お世話になっております。 桑原先生には「地球に寄り添って」の初演をしていただいたことがあります。 吉田先生には来年4月、横浜市で「鈴木憲夫の世界」を企画して下さっています。 いずれここでご報告することでしょう。 今回は「人物交友録」のような内容になってしまいました。 「人を大事」に「良いお付き合い」をしたいと思っている人には、必ずや良い「縁」が生まれるものです。 「運」さえ前開きに向上します。 それは「良い人」に囲まれるからです。「良い縁」に包まれるからです。時に「仕事」も付属してやってきます。 心がけ次第で「運」そのものが変わるものだと思います。 ただしちょっと心がけが変わったからといって変わるものはありません。 それが実になるのは、何年(5年10年20年)という単位でです。 逆に心がけが悪く人の「悪口」を言い立てる人のところに人は集まりません。 集まるとするなら「似たような」人です。 そう、まさに「似た者同士が集まる」これが人の社会なのだと思います。 これらはこれまでの経験で実感としているところです。
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HP通信NO.351/ 2014.4.1
今年は桜の開花が少し早いようです。 鳩山でも先週末には桜が咲きました。 「桜子」の花。この桜の木を「桜子」と名付け一年中声をかけています。 「自分が何者なのかを知らさず」ひっそりと佇んでいます。しかしやっと「桜子」の本番の時がやってきました。 「私こんなにきれいなのよ」と桜子の「自慢げ」で「嬉しそうな声」が聞こえてきそうです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3月26日は父の没後四十九日で「納骨式」を行ってきました。 「慈しみの像」の前で。 その日は陽は照ってはいなかったものの小春日和でした。言い換えれば「納骨日和!」 母、と親戚数人とで納骨式をしました。 納骨のために石棺の石をどけると、砂地に白布袋に入った「家内の骨」がポツンと置いてありました。 ホントにポツンと・・・・・・。 「これまでヒトリで寂しかったろうな」と久しぶりに「家内」と対面しました。 真新しい白の布袋に入った父の骨を、家内の骨の傍らに寄り添うように置きました。
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HP通信NO.350/ 2014.3.19 仙台と鳩山を慌ただしく往来している内に、あっという間に時が流れました。 HP更新も大分間が空いてしまいました。 その間、確定申告を終え、バチカンのパンフレット送付などの準備をし、2週間前は「おかあさんコーラス栃木県大会」、 先週は「埼玉県大会」の選考委員をし、すぐ仙台に行き、昨日帰ってきました。 ところがです、母が3日前ベットからころげ落ち肋骨を2本も骨折し、緊急入院。 先月は3日に「腸炎」で緊急入院したばかりでした。 今回は私が居りましたので叔母も少しは気が楽だったと思いますが、ふた月続けての救急車騒動です。 叔母には何かと苦労をかけています。 叔母は母より12歳下の72歳、とても明るくて元気な人です。 二人の会話を聞いているととても仲の良い姉妹だと分かります。 叔母が母へよく「小言」を言います。母はあくまでマイペースで聞いているのやらどうやら・・・・・・・。 母も結構ワガママです。「相性が良い」ということなのでしょう。 賑やかな和気あいあいとした二人の会話は途切れることはありません。 母の容態を確認し、夜になって一昨夜帰宅しました。 久しぶりで帰宅すると郵便物や宅配物で納屋が一杯になっていました。 普段から結構、雑用は多いのです。 一日に約2時間は雑用に当てます。 「音楽ほほえみ基金」の仕事や手紙書きなどなど・・・・・。昨日は大分雑用に時間を取られました。 よく人様から「筆マメですね」と言われます。 礼状などはすぐに書かないと後で分からなくなるものですからすぐ書く習慣がついているだけのことです。 今はそんな訳で仕事のペースを作るのがやや難しい生活です。が、言い訳ばかり言ってられません。 ちょっとの時間でも作曲のことを考えています。 今の時期は「重いものを動かすのにテコを使っても動かず」といった状態です。 春の陽気と共に、私の上にもやがて「恵みの春がくることを」願っています。 3月8日、久しぶりのマノンの里帰り。
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HP通信NO.349/ 2014.3.1 暦がまた一枚めくれて「3月」。 父の突然の逝去もあって、なにやら慌ただしく過ごした2月でした。 確定申告の準備も2月初旬には終わっているはずだったのですが、そんなこんなでまだ途中です。 「今、目の前のやらなけばならないこと」を指を折って数えるだけで頭がクラ〜としそう。 父の件につきましては、今でも多くの方々よりメールやお悔やみを賜り心より深く感謝を申し上げます。 地元新聞紙にて「葬儀は近親者のみで行いました」との報告記事を掲載したものですから、 利府の家にも細々ながら弔問客が切れることなく続いているようです。 頂戴したメールにはなるべくご返信しておりますが、利府と鳩山のパソコンを行ったり来たりしていますので手違いもあるかと思います。 失礼がありましたらどうかお赦し下さいますよう。 七年前にあの世に行った亡き家内・美智子はきっと父を大歓迎しているでしょう。 知り合いをたくさん集めて「歓迎会」なんてやっているかもしれません。(そんなことをしそうな人だったものですから・・・・・・) そういう想像も楽しいものですね。(あの世なんて誰も知りませんから、想像で楽しく幸せになれるのなら結構なことです。) 美智子は父と相性が合ってました。 あの世で二人。 こちらでは私と母と二人。・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・ さきほど散歩をしていてふとある言葉を思い出しました。 「懐かしいものへの憧れ 祈りにも似て」 これは私が20代の時に作曲した「地蔵礼讃」の楽譜にサインをする毎に書き添えた言葉です。 もう随分昔のことなのに今もその思いに何の変わりはありません。 その「懐かしいものへ向かって私は憧れ」、それが私にとっては「祈りと同じなのだ」と改めて気付かされます。 3月26日が四十九日なので、その日、納骨します。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2月16日は宇都宮市で「栃木県合唱連盟50周年記念式典」が行われました。 「栃木県合唱連盟歌」を作曲しましたので(作詩:村田さち子先生)その日お披露目でした。 その日は記録的な大雪。 私はその前日から宇都宮入りをしていたのでしたが、翌朝、タクシーが動かずにやっとのことで会場にたどり着いた始末。 出演する合唱団も集まらない中、開催も危ぶまれたのでしたが、須藤礼子理事長の決断で決行。 出演者も観客も少なかったのですが、中身の濃い演奏会となりました。 出演者側は「今日ここに来れなかった人の分まで歌う」、 そして観客は「少ない観客だけど一生懸命に応援してるよ〜」というような心の響き合う催しとなりました。 レセプションで右から須藤礼子栃木県合唱連盟理事長、おとなりが詩人の村田さち子先生。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 群馬県合唱連盟主催<合唱講習会> 2月23日は前橋市で群馬県合唱連盟主催(江原満里子理事長)の「合唱講習会」の講師を務めました。 前橋市も市内にはまだ大分残雪があり、関東全域がいかに記録的な大雪に見舞われたかを伺わせました。 曲は「二度とない人生だから」より3曲。 終始、和やかに笑い声が絶えない、楽しい講習会となりました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
クリックすると他のページも見れます。 お問い合わせ、資料請求などエムセックへ。 メールは<info@mcec-inter.com> いよいよバチカンコンサートへ向けてスタートします。 |
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HP通信NO.348/ 2014.2.14
突然のご報告となりますが、2月6日早朝、父・源治が他界しました。 享年88歳。 とくに容態が悪かったというわけでもなく、入院先の病院には先日も見舞いに行ってきたばかりでした。 危篤との第一報を受けたのは朝の6時半。それから間もなく息を引き取ったとの連絡を受けました。 朝、看護士さんが見たときには「息が大分弱くなっていた」ようです。 そして間もなく、「潮が引くように」静かに息を引き取ったとのことでした。 在りし日の父・源治。大好きだった釣りをしている時の写真。 本人は生前、自分の葬式にはこの写真を使うようにと言い遺していました。 実は母は2月2日の夜に、急激な腹痛を訴え緊急入院をしていました。診断は腸炎。 私は翌3日、塩釜の病院にかけつけその晩は利府に泊まり、鳩山に帰ってすぐのことでしたので、 早朝の利府の叔母からの電話は、まさか母に何かしらが・・・・と思ったほどでした。 訃報を聞き、急いで母の入院する病院に着いたのは午後になってからのことでした。 その後、南仙台に店舗を構えるのですが、その時も父らしい逸話があります。 この世に「親と子」に生まれて来て、この世でのそれぞれの「宿題」を終えたような気がしています。 今回は「近親者・親族での葬儀」といたしましたが、どこからか広がり、お悔やみのメールなどたくさん頂戴いたしました。
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HP通信NO.347/ 2014.1.31
仙台/利府の家の近く「加瀬沼」には毎年、白鳥がやってきます。 写真をよ〜くご覧になると薄い氷が張ってあります、お分かりになりますか? 冷たい湖面に鳥たちが賑やかに楽しそうに憩っています。 ここの白鳥たちが利府の家のすぐ下の小さな沼にも時折飛んできます。 啼き声は白鳥の優美なイメージからはほど遠い、アヒルが変声期を迎えたような声です。 この光景・・・・「冬の風物詩」ですね。 今年も、はや1ケ月が過ぎようとしています。 「さて!今年はどんな年になるだろう?」などと年頭に考え、以前はよく「書き初め」をしたものです。 ここ数年面倒になってさぼっていますが・・・・・・毎年自然と言葉が浮かんできます。 今年は?というと 「ヨ〜イ・ドン」です。(これでは書き初めにはなりませんね) 「いろいろな意味でヨーイ・ドン」です。 考えてみれば「<人生>いつでもヨーイ・ドン」のようなものなのですね。 ここ鳩山荘には来客が殆どありません。 以前は独りでは寂しかったのでよく「オイデ、オイデ」と手招きをしたものですが、今は独りの方がよくって年々来客数は激減。 昨年はたしか5人以下。 なのに、どういうわけか今年は既に3人。 「今年は賑やかな年になるのかな?」などど今年の縁起に思いを馳せているところです。 昔々教えた子供たちが今は「よい歳」になってやってきます。 イヤ私のところにやって来るというよりは「亡き家内」とのつながりを今でも感じるからなのでしょう。 私たちにとっては子供みたいなものです。 今、彼らは「現役」で「人生真っただ中」をやっています。 結婚のこと、仕事のこと、病気療養中の「子」もいます。 日々、子供にご飯を食べさせ、気がつけばあっという間に夜になる、といった生活。 私たちに子供はありませんでしたが、毎日毎日、何と気ぜわしくしていたかを振り返り思い出します。 その日その日の暮らしに追われていた生活でした。 仕事もそうです、人間関係もそうです、「モグラたたきのモグラ」のようにいつも叩かれて首を出したり引っ込めたり・・・・・・。 それこそが「人生真っただ中の現役」というものです。 今はそういう意味での「現役」ではありませんですが、かの長嶋監督が「メイク・ドラマ」とか何とか言いました。 「私の物語」は現在も現役・進行中です。 むしろこれからの「メイク・ドラマ」が面白い、と思いたいものです、ホントに。 ここ鳩山に移る時に大部分の「シガラミ」を捨ててきました。 種々の会の役員をやってましたので昔は週に2日以上は会議、そしてお付き合いなどで結構忙しかったものです。 また所属する会の会員も徐々に辞めて今はまったくのフリー。 ですから名刺などには何の肩書きもありません。 「シガラミ」がなくなった身とはいえ、人というのは生きている以上、次から次へと新しい種類の「シガラミ」が出て来るとも言えます。 たとえば「知識」もひとつの「シガラミ」です。 「死ぬまで勉強」というのも凄いことです。そういう人を知っています。 私はそれを否定しませんが「知識を捨てる」事も大事なことだと思っています。 言葉を換えれば「知識」を重ねることは「知識を借りて物事を観る」という「シガラミ」が増していくのだと。 「知識」を捨てて「自分の目で物事を図り観る」ことで、本当のものに触れようとすること、 それこそが本来求めるあり方ではなかったか、と私には思えるのです。 という考えもできます。 もっと言えば自分の「思い」さえ「シガラミ」で縛られることもあります。 「シガラミ」というものを随分時間をかけて私なりに解き放ってきたつもりです。 鳩山荘で「独り」を楽しみながら、来客もなし、外に出る時は仕事のみ、余計な「シガラミ」のない気楽さを満喫している日々です。 「独り静かに」とは今の私には、最も心地良い「心持ち」です。 が、「そんなことで良いのか?」と脳の一部セクターが発信しています。 上で「知識さえシガラミ」と書きましたが、そうと思い込むこと自体がひとつの「シガラミ」ではないか。 話が堂々巡りになりました。 「シガラミ」はある部分たしかに「不要」であっても、大切に向き合う「シガラミ」も必要なので、はとも思うようになってきました。 これまでのように「シガラミ」から脱する自分があり、また新たな次元での「シガラミ」を受け入れようという自分がある。 そういう意味で今年は自分の心を新たに「俯瞰ふかん=全体を見渡す」する<ヨーイ・ドン>の年であるかもしれません。 利府に居る時には何度か塩竃神社まで歩いて行きます。 往復2時間。先日も滞在中2度行きました。 いつも「おみくじ」を引きます。 それがいつも不思議なのです。その時々の思いへの「答え」が返ってくるのです。 「ご神託」を戴く思いです。 思えば、私が生まれたときからの「ご縁」です。 塩竃神社の神様が私のことを守ってくれているような気がしてくるものです。 上の写真は1月24日でしたが、1月中はまばらながらも「初詣」の人がひっきりなしです。
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HP通信NO.346/ 2014.1.16
1月12日は亡き妻・美智子の命日でした。 昨年は7回忌でしたのでお墓参りをしたのでしたが、今年は鳩山で一人でいることにしました。 ところが妻の友達の北條さん、榎本さんがわざわざ遠くからお花を持って来てくれました。 彼女は多くの人から愛された女性(ひと)でした。 亡くなってはじめて「その人との本当の対話が始まる」のだと私は思っています。 そしてその人への理解が深まるとも言えます。 私の母がそうです。 母と彼女の間で、彼女の生前、トラブルや諍いなどありませんでしたが、そこは「嫁姑」。 「見えない糸」が時折絡んだりしていました。 死して時間が経って、彼女への本当の理解と深い感謝の気持ちが、母をみていると感じます。 亡くなって直後、古い友人で、若い頃に妻を亡くした彼が私にこう言ったことがありました。 「ノリオさん、お正月ひとつひとつ過ぎると気が楽になるよ」と。 本当にそうでした。 毎年、この時期、辛い思いをして過ごしてきました。 しかし一昨年頃より少し雪が溶けるように気が楽になってきました。 今年の命日でまる7年が過ぎたことになります。 永いといえば永いし、あっという間のような気もします。 振り返ればはじめの5年という歳月は本当に辛い時期でした。 しかも引っ越したばかりの鳩山の家に、彼女はのべにして2週間いたかどうか。 たとえば台所用品ひとつ揃えるにも、なにが何だか分からず、今思えば半分泣きベソばかりかいていました。 鳩山は静かなところです。 静かさは寂しくもあります。 引っ越す以前に住んでいた「さいたま市」に居たら、多分今の私はなかったと思います。 「寂しい」は人の心を鍛え磨いてくれるのですね。 毎日歩く散歩道 自然の多いこの場所で癒され、偶然やってきたオスネコ「マノン」にも癒されました。 昨日から月に1.2回、家政婦さんに来てもらうことにしました。 その家政婦のKさんはネコ好きのようで、壁に刻んであるネコの爪痕をみて「ネコちゃんいるんですか?」と聞いてきました。 マノンのことを話しました。 彼女が亡くなったその春に家にやってきて、一昨年春、家出をしたことについても話しました。 そうしたらKさんがこういうことを言うのです。 「きっと奥様がそのネコちゃんのことを招んだんです。ダンナさんが寂しいと思って。 そしてもう大丈夫カナ?と思ったときに、ネコちゃんにご苦労さん、って言ったのだと思いますよ」と。 家にいた頃のマノン 歌の歌詞ではないですが、 「来る人があれば 去る人もあり」 物だってそうです。 「来る物もあれば 去る物もあり」 時もそうです。 「成る時があれば 成らぬ時もあり」 失くし物もそうなのです。 失くしたのではなく、その物が離れていったのです。 ある時、愛用の万年筆を失くしました。 緑色の万年筆、インクも緑のものでした。 それを「風水」に詳しい知人に話すとこういう答えが返ってきました。 「今のスズキさんには緑色との相性が悪い、だから、自然と離れた行ったのですヨ」。 マノンが自身の役割を知ってか知らずかは分かりませんが、ネコとは時にそういう魔力(?)を発揮するのですね。 今はご近所のOさん宅に居候しているマノン。 幸せな「第二のニャン生」を送っています。
近いうちにパンフレットが出来ますので、その折に詳しくお知らせ致しますが、 現段階で知るかぎりのおおまかな予定を記しますと、 ・11月8日成田を出発 ・11月10日、夜、「システイーナ礼拝堂」にて演奏 一般の方はシャットアウトし、貸切にされ、バチカンの招待者が招かれる演奏会になるとのこと。 バチカンからの要請で実現したようです。 システィーナ礼拝堂とは皆さんご存知のミケランジェロの「最後の審判」が有名です。 またローマ法王を選出するコンクラーベの崇高な場所ということです。 ・11月11日、夜、「サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂」にてコンサート。 バチカンの直系の大聖堂。 この教会は世界で現存する最も重要な聖堂で、聖マリアに捧げられた最大聖堂です。 バチカンにローマ教皇の宮殿が出来る前までは、この聖堂がローマ教皇の宮殿として 使われ、内部には過去のローマ法王のお墓が眠っているとのことです。 ・11月12日、午前中「ローマ法王謁見」 ・11月14日、成田着 |
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HP通信NO.345/ 2014.1.5 新年明けましておめでとうございます。 年末年始は仙台/利府にて過ごしました。 父は施設に入院していますので、母と二人きりの年末年始。 暮れはいつものことですが、今年一年の世の中の流れというものを眺めるように母とTVを観ておりました。 観る、といっても賀状の宛名を書きながらです。 紅白なども観ました。 やっと「AKB48」のことを認識できたと思ったら次から次へと若い「タレント集団」が出て来て 「何が何だか」もう「分からん!」時代。 コレワたしかに「古い時代の古い人間」の典型と捉えられもしましょうが、しかしです、皆さん。 彼ら彼女らが「優れた才能とその努力によって我々に楽しみや喜びを与えてくれるのなら」心から敬意を表しますが、 歌も踊りもヘタ、まるで「学芸会」を観ているみたい。 表現は悪いですが「商品にならない欠陥品」が堂々と売りに出されている、いつの間にかこんな時代に私たちは生きています。 もうその時点で私は明らかに「老人」。 しかし、しかしですよ皆さん。 こういう未熟な文化に何も「こびへつらう」ことはないんです。 私たちが「ついて行けない」ではなく「精神面で若者たちについてコイ」と言わなければ。 そういう自負と誇りと自信を持ちたいものです。 静かに年が明けて、ひとつまた年を取りました。 年が増えて「小躍り」する若い頃もありました。 仏教でいう「生老病死」(人間の4つの苦)を実体験で味わう年齢となりました。 最近思う事ですが、むかし勉強した数々の事、そのひとつひとつが「頭での理解」ではなく「実感」として 思えることの大切さ、その得難さ、を心より思うのです。 そして「耳をすませば」「目をすませば」「心をすませば」本当のモノが見え、聞こえ、感ずるようになりたいものです。 そのために私たちは勉強してきたのではなかったか、と。 一年の計は元旦にあり、といいますが、毎年自然と今年の抱負のようなことが頭に浮かびます。 還暦とは「暦」が一巡することです。 ですから今年私は「オンギャー」と産声をあげたての「新生人」。 赤ちゃんや子供で素晴らしいと思うのは「何から何まで全てはこれから」ということ。 「見る物聞く物」が「全て感動」、と、そこまでは無理でしょうが、本来「還暦」とはそういう意味合いがあるのだと思います。 平たく考えて今年一年の抱負。 ・魚をなるべく食べる ・いつも三日坊主になっている「腹筋」などの「筋トレ」をする ・12時前には就寝する これだけでも実現できたら立派だと自分に言い聞かせて日々心がけたいと思っています。 とにかく、何と言っても「身体」が健康でなくては「何」もできません。 今年一年の皆さまのご健康を心より願っています。 私は賀状には稚拙な字ではありますが毎年私なりの賀詞を添えています。 今年は 「新しき年 嬉しいこと 楽しいこと 良きことの多い 一年となりますように」 と書いています。 どうか皆さまには良き年となりますことを心より祈り願っております。 本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。 尚、相変わらず利府と半々の生活ですので、次回のHPの更新は1月17日前後になる見込みです。 |
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