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「HP通信3」は08年1月より再開しました。 「HP通信1→2005年」 「HP通信6→2011年」 「HP通信2→2006年」 「HP通信7→2012年」 「HP通信3→2008年 「HP通信8→2013年」 「HP通信4→2009年」 「HP通信9→2014年」 「HP通信5→2010年」 |
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HP通信NO.403/2015.12.29 今年も一年が過ぎようとしています。 毎年の事ながら、暮れというのは何やら「もの佗しい」気がします。 今の歳だからというのではなく、もしかしたら子供の頃からずーっ思っていたような気もします。 やはり一年の終わりというのは何かしらの感慨をもつものなのですね。 一年を振り返ると、一日一日たしかに何事かをしていたはずですが、日々のことは「雲が流れるごとく」もう忘却の彼方です。 気付くと一年の終わり。本当に月並みですが、一年が過ぎるのは何と早いこと。 しかし私のような仕事をしているとコンサートやまた作曲を通して、その時々の思いをたぐることができるのは幸せなことだと思っています。 年々時間が過ぎるのが早いと感じるのは、どの人も同じ感慨だと思います。 昔はさほどに思わなかったことですが、年々そう感じるのは、 昔々は「目にするもの聞くものひとつひとつ」に新鮮な驚きや感動を覚えたからです、きっと。 その分、時間が凝縮していたのかもしれません。 いわば「初体験」だらけの時代は、心も身体も、重力の抵抗がたくさんあったわけです。 今は、といえば、おそらく重力に逆らうのを諦めているのかもしれません。 言葉を換えれば、いろいろと「学ぶ」ことにより、いつしか「初体験」の時のような感動も次第に薄れ、 いちいち「心にひっかかるように触れていたものが」素通りをしていく、・・・歳による時間感覚の差とはそういうところにあるのかもしれません。 個人的に今年一年を振り返れば、2月に母を亡くし、5月には婚約をし、新しい家族との物語が始まった年でもあります。 健康で過ごして来れたのは丈夫な身体をくれた父母(ふぼ)の恩と、つくづく思うこの頃です。 来年はどんな年になるでしょうか。 年を越すということは人生での「仕切り直し」のようなものです。 今年もきっちりと「仕切り直し」を致さねば。 また来年お目にかかります。 今年一年、このホームページをご覧下さりありがとうございました。
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HP通信NO.402/2015.12.20 岩殿観音・西国十番札所/正法寺の大銀杏。(12月10日頃) 今年の岩殿観音の大銀杏の黄色い絨毯が見られたのは例年よりちょっと遅めでした。 これを見ると年の瀬を間近に感じます。 私の一年の予定もほぼ収まり、後は家での仕事を残すのみとなりました。 本日12月20日の鳩山荘。 樹々の葉が落ちて、はるか川越の地平まで見渡せます。 仕事で街に出かける以外は上のような環境で暮らしていますと、たまさか街に出ると、人ごみと騒音で頭がクラクラしてきます。 とくに最近よく気付くのは、歩きながら「スマホ」をしている人。 しかも駅の雑踏の中、階段でも「何のその」。 きっと近いうちに駅のアナウンスで「まっすぐ前を見て歩きましょう」なんて放送があるかもしれません。 まるで幼稚園児なみです。 今時、食事をしながらスマホをいじっている人はザラです。 自転車に乗りながらもスマホと一緒ですから、自転車のご当人はともかく、通行人もボンヤリ歩けない時代になりました。 私の若い頃は「年寄り」から「今の若い者(ヤツ)は」ということをよく言われたりしたものです。 そういえば最近そういう台詞をあまり聞かなくなったような気がします。 「年寄り」が「年寄り」らしくなくなったのですね、きっと。 ・・・・・という私も年寄りの世代ですが・・・・・ 「今の若いヤツは」と言った昔のそれも大昔の世代の「年寄り」からみた今の世相、はたしてどう映るものか。 自身は「年寄り」の自覚はないのですが、明らかに、私は「年寄り世代」。 ですから一言もの申すのですが、何事も「選択しなければならない優先順位」というものがあると思うのです。 「今はコレをする」「次にコレをする」。 食事をしながらのスマホではなく、食事をしてから・・・、さらに、歩きながらではなく、歩いた先でスマホを使うとか・・・。 優先順位を選択できないのですね。 瑣末(さまつ)なことですが「一時が万事」といいます。 それは一言で言えば「段取りをつける」ことにつながるのです。 これからの時代「段取りをつける」ことの出来ない人間が増えるのではと思います。 「段取りをつける」とは「知恵」です。 「知識」はスマホは提供してくれますが、「知恵」は自身の工夫から生まれるものです。 ついでに言えば今の時代、マニュアル対応で「自分の言葉」で話せない人が多いのに、今後は更に増えてきそうです。 「流行」は繰り返されるといいますが、現に携帯電話に戻る、という人もかなり居るとか。 世相も良い意味で振り返ってほしいものと思います。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 18日は新作の「スターウオーズ」を早速観に行きました。公開初日です。 やはり「スターウオーズ」は特別な映画なのですね。 満席で子供から私らの世代まで、さらに女性も多く、幅広い層なのには驚きました。 シリーズのようですので、楽しみが増えます。 年内にはもう一度更新をするつもりです。 今年は暖冬なのでしょうか。 しかしちょっと油断すると危ない時期、私もそうですが、皆さんもご油断なきよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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HP通信NO.401/2015.12.08
ホームページの更新は普段なら10日おきにしているのですが、今回は特別にちょっと早めです。 昨夜、急に思い立って明日の朝「利府」に行く事としました。 5日に半年以上かかった混声合唱組曲「愛を乞うひとたちへ(仮題)」を完成させました。 この作品は4曲中、3曲が自身の詩によるものです。 委嘱は「日本大学生物資源科コーラスグループ・ウンディーネ」。 指揮は村上彩奈さん。 (いずれ鮮明な画像で改めてご紹介します) いつもながら、もう「自身での作詩はやめ」と思いつつ今回も「いばらの道」でした。 混声の作品としては2009年の「楽園」以来です。 久しぶりの混声の新作です。 こう書くと随分と怠けていたかナ、と思わないでもないのですが、なにせテキスト(詩)がこれといったものがなかったのです。 これまでも混声の委嘱は受けていました。 ですが、テキストがないので新作はいつも見送りになっていました。 次回作も実は、自身のテキストによるものです。 この委嘱も一旦は断りかけたものです。 ですが次回作も意を決し、自身でテキストを作りながらの作曲になります。 今回も作品の完成が遅れに遅れて、演奏者にはご迷惑をおかけしましたが、その分、次の作品が待っていますので早速取りかかります。 「利府」はここ数日は天気が良さそうですので、気分を変えに行く事にしました。 お墓参りをしてきます。 利府の家からお墓まで徒歩で約2時間、距離は10Km。 往復をするつもりですが、果たして今回はどの程度歩けるか。 久しぶりの仙台になります。 6日は名古屋で「名古屋ビクトリア合唱団」の演奏会にお邪魔してきました。 指揮は当間修一先生。 今回は私の「雨ニモ負ケズに」を演奏下さいました。 美しく秀逸な演奏でした。 当間先生は大阪以外でも京都モンテヴェルデイ合唱団、東京コレギウム・ムジクム合唱団、 名古屋ビクトリア合唱団など若手の合唱団を育てられて来ています。 私はそれらの合唱団の立ち上げ当初から知っています。 どの合唱団も年々レヴェルを上げ、素晴らしい合唱団になっています。これは驚異的なことです。 名古屋ビクトリア合唱団も本当に素晴らしい合唱団となっていました。 この日は日帰りというスケジュールでしたので、当間先生とはゆっくりお話もできずに写真も撮り忘れました。 東京に着いたのは夜の10時。 この日は千葉の市川市に宿を取り、翌朝はコールベルの練習に出ました。 一つ作品を完成させるというのは歓びです。 同時にホっとする瞬間でもあります。 次回作の準備も昨年から少しずつ準備をしてきました。 これからいよいよ開始!というところです。 上の初演については改めてご案内をいたします。
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HP通信NO.400/2015.11.30
昨日は諏訪市の諏訪合唱団の演奏会にお邪魔してきました。 この合唱団とのお付き合いは20年に及びます。 この日のプログラムは過去に演奏された私の小品のステージ、そして「永久ニ」でした。 演奏会は満員のお客様。 たくさんの拍手をいただきました。演奏は素晴らしいものでした。 前列、指揮者の宮下荘治郎先生、右、元カワイ編集の松野満男さん、 後列左から箸尾先生響子夫人、箸尾哲男先生、ワタシ、婚約者の蕗子さん、ピアニストの安藤美季さん。 (もうお一人のピアニストの小口悦子さんが残念ながら映っていません。失礼しました。) 団員の皆さんとはもう旧知の間柄。 お一人お一人と親しく懇談しました。 打ち上げは大盛り上がり。 楽しいひとときを皆さんと共に過ごしました。 「木遣り」名人、田中さんと。 「永久ニ」は今から15年前にこの合唱団の委嘱で作曲・初演され、演奏会では15年ぶりの登場となります。 とは言いながら、これまで、初演以来幾度も皆さんによって「永久ニ」は演奏されています。 ウイーン楽友協会「黄金の間」での演奏、そして上の箸尾先生の指揮で、京都コンサートホールでの演奏、 さらにオーケストラ版のときの初演も諏訪から参加してくれました。 今回はそうしたご縁で箸尾先生はエキストラで友情出演。関西で大活躍・大人気のピアニストの響子夫人も特別参加下さいました。 宮下先生は長野市の男声合唱団「ZEN」の指揮者としてもご活躍、男声版の「永久ニ」も幾度も演奏下さっています。 ステージの合間に宮下先生とのトークも。 宮下先生:「この作品は今や日本中で演奏されていますが、ご自身でその理由をどう思われていますか?」 ワタシ:「さてどうしてでしょう。今の自身の姿は見えないものですが、鏡で見て初めて自分を意識するように、作品が多くの人を映し、 また多くの人の心の中で作品が映し出されている、ということでしょうか。」 そんな事をお話させていただきました。 元カワイ出版の松野さんとも久々に歓談。(今年の4月に日本合唱連盟の「ハーモニー」の座談会に出席してくれました) 松野さんも「永久ニ」の初演は勿論、何度も私と一緒に諏訪の地に訪れてくれていますので、団員の皆さんとはすっかり馴染み。 「永久ニ」に続く作品は「楽園」ですが、昨日、松野さんに「楽園」なかなか演奏されていないようです、と言うと、 彼は「これからです」と。 彼とはお互いの人生の半分の付き合いとなりますが、そう言えば彼はいつも私に「これから」と言ってくれています。 「永久ニ」初演後、この作品がなかなか演奏されない時も、彼は私に言いました「これからですよ」と。 「楽園」も彼に言わせると「これから」ということですので、彼の「予言」を信じましょう。 かつて私の作ったどの作品についてもすぐに歌われることのなかった時代、「これからです」といつも彼は私に語ってくれました。 亡くなった美智子にも彼はこう言ってくれたことがあります。 「美智子さん、憲夫さんはこれまで種をたくさん撒いてきたのだから<これからが>刈り入れですよ」と。 その時の美智子の喜びはずんだ顔が今でも忘れられません。 いつも私に「これから」という言葉を言ってくれる松野さんは私にとってありがたく嬉しい存在です。 団長の岡野さん。 しばらくは「酒が呑めないほどに」病気で元気がなく心配してましたが、最近は「お酒復活」のようで一安心。 しかし、昔のように「大酒飲み」復活が心配。 奥さんが私に「先生から言って下さい、ほどほどにって」。 ・・・・・・・・・またそれで体調を悪くしたら今度「お灸」を据えますよ岡野さん。 今回の演奏会には千葉からコールベルの人も6人応援に来てくれました。 コールベルのメンバーと諏訪合唱団も和気藹々の仲間。 今回は諏訪合唱団の皆さんへ蕗子さんを紹介しました。 皆さんはかねがね私のことを心配してくれていましたから、皆さんのお気持ち、とても嬉しく感謝です。 下はいただいた「花束」。 仏壇に報告。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12月です。 今年も「喪中」の葉書が届く頃となりました。 あの人もこの人も、時に「ため息」が出ます。
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HP通信NO.399/2015.11.20
今週16日月曜日にコールベルの皆さんと東京駅から「HATO BUS」(ハトバス)に乗って都内観光をしました。 今回は東京湾のクールジング。船の中でバイキングのランチをいただきました。 この日は「晴れ時々曇り」のお天気でしたが「やはり」晴れ!。 コールベルとのこうしたレクエーションは5.6年ぶりです。 今年は私は8月から11月の本番までわずか3回しか練習に出れませんでした。 久しぶりに皆さんとゆったりと楽しい時間を過ごしました。 この日のコースは「皇居」「湾内クルージング」「東京タワー」「浅草」。 湾内クルージングを覗けば「おのぼりさんコース」です。 「おのぼりさん」と言っても今の若い人には分からないでしょう。 若い人に言っておきます。 これは「一世を風靡」した言葉です。 時折、外人さんと一緒になりました。 ごく一般的な情景でした。 ごく「一般的」といったのは近年の「異常な情景」を見ているためです。 中国をはじめとする人たちの「爆買」という現象を我々はやや「呆れ顔」で眺めていますが、 実は我々日本人もバブル時期、海外で同じようなことをしていたのです。 この時期、日本人観光客が海外でブランドものを漁った、という報道がかすかに記憶にあります。 私にとってバブル時期というのはまったく縁(円)のないことでしたので、経験のある方々には「心の疼く」こともあるでしょう。 鳩山町でも実は「HATO BUS」が走っているのです。 |
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HP通信NO.398/2015.11.10 11月1日に開催された「第30回国民文化祭かごしま2015」・霧島市開催の「少年少女合唱の祭典」も成功裡のうちに終わりました。 今回は私はそのテーマソング「歌よ あの大空に」(村田さち子作詩)を作曲、指揮し、さらに総合演出という立場で関わりました。 合唱演奏の合間に「ボデイパーカッション」の「スクラムハート(*)」の皆さんに出演いただきました。 まずは上の写真、私のお隣が詩人の村田さち子先生、そのお隣がボデイパーカッションの創始者山田俊之先生。 左から「スクラムハート」のメンバー、一宮さん、和田さん、右はじが矢代さん。 (*)「スクラムハート」とはボデーパーカッション協会認定指導者チーム。 この日、スクラムハートの皆さんの楽しいリードで、会場全体がリズムの渦と化しました。 下の写真は「スタッフによる打ち上げ風景」 前列右に座っておられる森藤先生、山崎先生は霧島市少年少女合唱団の指導者で、今回の実行委員を務められました。 後列、左から二人目が、今回の事務局で奮闘された山元さん。 前列、村田先生のお隣で、やや疲れ気味の表情でいる男性、鈴木さんは教育委員会の人。 森藤先生らを含めもう10年以上のお付き合いになります。 皆さんの結束で今回大成功に終わらせる事ができました。 「総合演出」といっても、私はちょっと口を出しただけ。 あとは霧島市の教育委員会の皆さんはじめスタッフの「力」に依るところが「大」でした。 打ち上げも盛り上がり、本当に楽しい充実した一日となりました。 翌朝、霧島市のお隣の「薩摩川内市」でボデイパーカッションの講座を行い(薩摩川内市在住の友人若杉君が段取りをしてくれました)、 午後は皆さんと鹿児島市内を観光。 私は鹿児島へはもう数えきれないくらい行っておりますので、天文館で行きつけの「黒豚しゃぶしゃぶ店」を案内し、城山などをガイドしました。 開催日、またその後も天気予報では雨予報でした。 が、「晴れ男」の「私」(自称ですがもう公認?)。鹿児島市の城山公園から見る桜島もこの日美しい姿を見せてくれました。 城山公園からみた桜島。(一宮さん撮影) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 11月7日は市川市の合唱祭でコールベルが出演し私の「三つの聖母マリア賛歌」と「平和という果実」を演奏しました。 あいにく写真を撮り忘れました。 その夜の賑やかな打ち上げの写真もありません。 今回コールベルには、8月から10月までお休みをし、10月から先日の本番までたった3回程度の練習しか私は出席できませんでした。 その間、ピアニストの黒河内さんが代役を務めてくれました。 皆さん、とても良い演奏をして下さいました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7日の打ち上げの夜は酒を呑まずに鳩山に帰宅。 鳩山はなにせ遠い!。 市川から約2時間です。 その帰りの電車の中で、一瞬、「えっ?」とした瞬間がありました。 私の座っている席、目の前全員、スマホを片手に「つり革」につかまり、皆「同じ表情で」、背を丸くした同じ「格好」で立っているのです。 それも「無表情」。 その光景が異様でした。 どこかのジャングルで「人間に似た動物」が、枝にぶら下がっている風景でした。 いつも見慣れた光景ですが、見る角度が全員同じシルエットに映ったもので、より印象深かったのでした。 よく「近未来」をテーマにした映画があります。 「猿の惑星」「ターミネーター」などなど例を挙げればキリがありません。 あれは結局人類の「進化」した姿なのです。 文明が後退したとは言え、やはり進化なのですね。 スマホを片手につり革につかまっている人々も昔から比べたら「進化」した人類なわけです。 近い未来には運転手の必要ない車が出て来るそうです。 目的地まで車が勝手に走ってくれるのだそうです。 事故が起きない訳はないと思うのですが・・・・。何もそこまで「進化」しなくとも、と思うのは私だけでしょうか。 今や日本中、イヤ世界中「スマホ中毒」ですが、これは私の想像世界。 まるで映画のような話ですが「ある天才学者」がスマホを使って人類にマインドコントロールを仕掛け「世界征服」を企てる、なんてコワイ物語、 本当にまるで映画の世界です。 私など、人間、昭和の時代に戻る生活の方がよほど幸せだと思っているのですが・・・・。 ただ、携帯電話は必要カナ?。 待ち合わせ場所の勘違い、行き違いなど、もうまっぴらご免ですからね。 こんな他愛もないことを、夜の電車での奇怪(きっかい)な光景を基に勝手に想像を膨らませていました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鳩山は遠い、と書きましたが、たしかに電車に乗る時間は結構なものですが、普段家に居ると心地よくゆったりできるのも鳩山荘ならではです。 今月もこれからあちらこちらに出かけます。 鳩山荘は一日中陽が当たります。 ウッドデッキでの初めての冬を迎えますが、冬でも外で食事できるかもしれません。 夜はストーブが欲しい季節となりました。 「灯油販売」の声が聞こえます。 「喪中ハガキ」もそろそろ配達されてきています。 季節は確実に向かうところにむかっています。 それではどうか皆さま、御身大切になさって下さいますよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 11月1日は鹿児島/霧島市で「第30回国民文化祭かごしま2015」のチラシ。 |
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HP通信NO.397 2015.10.30 秋が少しずつ深まりつつある今日この頃、皆さまにはいかがお過ごしでしょう。 この10月は外に出かける事が珍しく少なく、鳩山荘に籠りきりの生活でした。 やらねばならないことが目の前に山と積まれている、というのに、少々ノンビリ気味。 腕をこまねいている日がむしろ多かったようです。・・・・・・「反省!」・・・・・・。 自身の分析ですと、常に旅などで留守をしつつ、その合間に仕事をするのが自分での良いペースになっていますので、 今回はそのペースが崩れた感ありです。 昔、「オーケストラと合唱のためのカンタータ<さいたまさちあり>」を作曲した時、 依頼側のミス(*)で作曲期間がわずか2週間しかない、ということがありました。 (*)1.2ヶ月前に依頼を発注するのを主催者が忘れて、初演間際にその連絡ミスに気付いたということがありました。 もちろん「夜なべ」をして作曲を完成させたのでしたが、私の仕事の歩みが遅い事を知っている指揮者のM氏が、 「急いでパーっと作った方が良いモノ出来るんじゃないの?」と、多少のイヤミと愛嬌を込めて言ったものです。 笑い話ですが、仕事というのは意外とそういうものかもしれません。 11月になると外に出る日も多いので、またぞろ良いペースが出来るのでは?と自身で期待しているところなのですけど・・・・?・・・・・。 家に居りますと、料理は結構「マメ」にしておりまして、最近では「研究」の域にまで達しています。 とくにパスタ料理。その中でも極めつけは「ペペロンチーノ」。自画自賛の一品です。 研究のし過ぎか、体重はそれほど増えてもいないのですが、オナカ周りが少し緩(ゆる)んだような・・・・。 気の「緩み」とオナカの「緩み」は平行する、というのは<新説>にならないでしょうか。 お酒もその一因になっているようです。 普段は量を飲まないのですが「明日は何もナイ」という前夜は少し「ゆったり気分」が過ぎる傾向が続いています。それも「反省!」・・・・・。 私は結構酒が強いのです。 私より酒に強い人と飲んだ記憶がないくらい。 減量をした時などは数ヶ月禁酒をしました。 禁酒をすると如実に減量に現れます。 それが嬉しくて禁酒の辛さなど感じませんでした。 ですからいつでも禁酒できる、という自信がついつい油断にもなるわけです。 酒は適量であるなら「妙薬」となりえます。 現に、栄養士さんと相談して食事制限をした時には、栄養士さんも適量範囲での飲酒は公認でした。 医師もそうです。しかし適量を超えると「毒」になるのですね。 それは自身で経験したことです。 8年前、妻を亡くした時、ある時期かなり酒量が増えた時期がありました。 それも楽しい酒である筈がありません。 体調も悪くなる一方でした。 その時こう思ったものです。 「酒で身を持ち崩す、とはこういうことを言うのか」と。 中国・3世紀の魏の時代「竹林の7聖人の中に<けい康(けいこう)>(*)」という人がおりまして、「酒楽哀楽論」なるものを著しました。 (*)「けい」とは岱に似た字です。ウイキペデイアで「竹林の七賢」で調べられます。 「酒も楽しく賑やかに飲めば身体にも良いが、陰気に怒を含んでの酒は身体を害する」と。 音楽も似たものだと言っています。 例えば「朝にラジオ体操のような音楽を聴けば爽やかだが、夜、寝る時になってラジオ体操など騒音に近い」。 とまあ、そんな事を言っているのであります。 話が飛躍ついでに、酒にまつわるこんな話もあります。 明治の初めの三菱・財閥の経営する会社の入社試験にこういうものがあったということです。 最終試験は「酒を飲ませてその飲みっぷり」で採用が決められた、と。 「酒に呑まれるような男では使い物にならない」ということだったようです。 話があちらこちらに飛びました。 今回雑談放談の類いになってしまいました。 明日から鹿児島県・霧島市に行って参ります。(下記の催し物) 鹿児島は東京より寒いときがあるのをご存知だったでしょうか。 今回は何やらそのようです。 それでは皆さま、この時節、呉々もご油断なきよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 11月1日は鹿児島/霧島市で「第30回国民文化祭かごしま2015」「少年少女合唱の祭典」が行われます。 合唱祭のチラシ お近くの方、宜しかったらお出かけ下さい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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HP通信NO.396/ 2015.10.20 11日はNHK音楽コンクール・本選/小学校の部をNHKホールで審査をしてきました。 テレビで全国放送されましたので、ご覧になった方もおられることと思います。 本選の審査は3回目ですが、年々レヴェルも高く、傾向も変わっている事に驚かされます。 翌12日は武蔵野市で行われた当間修一先生指揮の東京コレギウム・ムジクム合唱団のコンサートにお邪魔しました。 そこでは「永久ニ」が演奏されました。 当間先生はこれまで何度もこの曲を指揮して下さっていますが、いつも新鮮で新たな「永久ニ」の世界をこの日も聴かせていただきました。 東京コレギウム・ムジクムの若い合唱団の皆さんの演奏も見事なものでした。 私はこの合唱団が産声を上げたときから知っておりますので、その成長ぶりも嬉しいことでした。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ この間、ものすごく寒い日がありました(二日続けて)。 私は早速ストーブを点けました。 それを市川市のコール・ベルの人に話しましたら皆さん「えーっ!」という反応が。 その反応を見て私の方が「えーっ!」と。 「こちらの」皆さんはまだこの時期、ストーブは点けない方が多いのです。 仙台生まれの私はやはり「東北人」なのでしょう。 一般に北国の人は「寒さに強い」と思われがちですが、実は違うのです。 むしろ「寒がり」なのです、ホントは。 「寒い」という反応があると即「暖房」と結びつけてしまいます。 ですから「寒がり」と言えばたしかに「寒がり」、しかし「寒さ」に「過敏に反応する」のが東北人だと私は思っています。 ちょうど今のような時期に電車の冷房に出くわすと「迷惑もよいとこ」と思ってしまう「東北人」の私であります。 上京してもう35年も経つのに、生まれ故郷の風土が身に沁みているということなのでしょうか。 「北方系」「南方系」という言葉があります。 字のごとく、まさに「北国=北方」、「南国=南方」です。 私は仙台ですので、位置的には「北方系」に属します。 しかし、精神的にはいつも「南方系」に憧れを抱いています。 青森出身の「棟方志功」は「南方系」だと私は思っています。 ストラヴィンスキーはロシア生まれですが「南方系」だと私は思います。 もちろんピカソは生まれも育ちも「南方系」。 「北方系」「南方系」にはそもそも気候風土から発する文化の特徴があるのです。 「北方系」は寒い冬の間、食料が乏しくなるので「蓄え」が大事になってきます。 そこから文化が生まれるわけです。(料理を見てもその違いは歴然) 文学も音楽も芸術一般、ロジカル(思考の積み重ね)が基本にあります。 それに対して「南方系」というのはロジカルはさほど重要ではない。 冬でも食料に窮することはないから、蓄えるという意識は育たない。 冬でも庭には果物が、目の前をニワトリ(食料)が歩き回っているのですから。 私が興味のあるのはその指向性です。 「葛飾北斎」などは私は「南方系」だと思うのです。 先に触れた「棟方志功」それに「岡本太郎」もまさにそうだと思います。 次から次へと脱皮をするがごとくに新しい創造、発想ができる、これが「南方系」の特徴といえます。 「南方」出身でも「北方系」の人はいます。 「北方系」の特徴というのは「一つのことを連綿と構築していく」タイプ、と言えます。 仕事場も「北方系」の人はおそらく「暗い洞窟のような環境でないと仕事が進まないタイプ」。 「南方系」の人は「まるでサンルームのような仕事場」だと勝手に想像してしまいます。 私は先に「南方系」に憧れると書きましたが、私の仕事場は昔、小さな閉じこもった空間でした。 しかし最近、サンルームのような空間を欲するようになりました。 十人十色といいます。 同じ環境に生きていてもその人の指向性は万別です。 家庭でもそうです。 それは「どこから」「どうして来るのか」。 同じ電車に乗り合わせた人を観察するのも面白いものです。 私が小説家だったらきっとそこから新しい物語を創るのでしょうが・・・・・・・。 今の時期、ちょっと油断すると体調が狂います。 常に自身で留保しているつもりですが、先日、ちょっとノドをやられました。 どうか皆さん、くれぐれもご油断なきよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 11月1日は鹿児島/霧島市で「第30回国民文化祭かごしま2015」「少年少女合唱の祭典」が行われます。 合唱祭のチラシ お近くの方、宜しかったらお出かけ下さい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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HP通信NO.395/ 2015.10.10 秋の陽射しが肌に心地よい季節となってきました。 ちょっと外を歩くと秋の花が微笑んでくれます。 最近はずーっと鳩山荘に居ります。 どちらか言えば珍しいことです。 その分、きちんと仕事を「しなさい」ということなのでしょうが。 いつも静かな自然環境の中に居りますと、たまに街に出かけるとその喧噪に頭がクラクラ〜とします。 先日、久々に街に出てイタリアンの店に入りましたら、私の隣の席の女性4人組のすさまじさに頭がクラクラ〜どころではなくフラフラ〜となりました。 彼女たちは「死にものぐるいでしゃべり、死にものぐるいで笑って」いました。 ちょいと振り返りお顔を確かめると、皆さん40歳そこそこ。 きっとここで大いなるストレス発散をされているのでしょう。 私は自分の食べている味さえ分からず状態でしたが・・・・。 最近よく思うことですが、私はどちらかと言えば次第に「神経質?」になっているやもしれません。 普段生活している静かな環境もその一因でしょうし、 あまり下界との接触がないものですから、現実とのギャップに「思う」ことが多くなったとも言えます。 論語で 「君子、道を学びて人を愛す」とあります。 君子(くんし)=立派な人、道を学ぶ=世の中の道理をわきまえ学ぶ、人を愛す=人に寛容で広く許容する。 その言い方からすると、私などまだまだです。 先日の「死にものぐるいで」おしゃべりに興じておられたお姉様たちへの「寛容」の気持ちなどなかなかなれないものです。 山で独りで暮らしていますと、昔、私の師から聞いたある言葉を思い出します。 「作家にとり必要な環境とは、山奥に独りで居て、他との接触なるべく少なくし、自分の境地を創ることだ」と。 私の若い頃の世界は多種多様の価値観に溢れ、常に戸惑いと、迷いの中にありました。 具体的に言えば、いわゆる前衛芸術が主流の時代でした。 師の言葉はそれが背景にあってのことでした。 同時に「胆力」ということもよく言われました。 要するに「堪(こら)える力」とでも言うのでしょうか。 それらの言葉は今、自身の血肉のようにさえ感じることができるようになりました。 それは私にとっては自然の成り行きとは言え、前述したギャップ感もまた強く感じるところとなっています。 そうしたややもすると「神経質?」と感じること自体、今、私が生きている環境に依るところが大きいのだろうナ、とは思うところです。 街中で暮らせばまた違った楽しさ、慣れ、というものも出来てくるでしょう。 時折の下界に戸惑う、今どき、時代ズレもよいところの「浦島」さんです。 ですから逆に、世の中の出来事もある意味で「真摯な視線」で見ることが出来るとも自身では思っています。 政治についてもテレビで観る範囲での我が国の首相の弁は、誰かが書いたシナリオを読んでいるだけ、と私の目には映ります。 現在進行形の外国での難民対策など、外国の政治家はちゃんと「政治」をしているな、と映ります。 今や当たり前になっている電車の中の「前かがみのスマホ姿勢」など、いつまでも馴染みません。 テレビも相変わらず「いかに視聴者を苛つかせる」かを競いあっているかのようです。 やはり私は少々「神経質?」。 あまり「あちらこちらと目が向き」、心も「あちらこちらと動く」と人間「病気」になるかもしれません。 ですから、 「君子、道を学びて人を愛す」・・・の言葉を静かに噛み締めて生きることが、健康のためにも良いと思うのですが、皆さんどう思われます? 毎日のように歩く近所のたたずまい。 鳩山町の住宅地風景 マノンも元気です。(久しぶりの登場です) 毎日のように「居候先」のOさんの家の前で会っています。 私の足音でわかるのでしょう、いつも顔をだしてくれます。 最近のこのHPの更新は10日おきくらいになっています。 これからいよいよ「秋深し」ですね。 朝晩の温度の差で体調を崩されませんように。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 11月1日は鹿児島/霧島市で「第30回国民文化祭かごしま2015」「少年少女合唱の祭典」が行われます。 合唱祭のチラシ お近くの方、宜しかったらお出かけ下さい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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HP通信NO.394/ 2015.9.30
ここ数日、とても月がきれいです。 毎夜、ここ鳩山荘・アマテラスで「月見酒」を楽しんでいます。 21日は塩釜に日帰りで墓参りに行ってきました。 その前夜、急に思い立ってのことです。 連休中のことでしたので、新幹線は超混雑。 指定席が取れなくても、私は必ず空き席を見つけていつも座る事が出来るのです。 「晴れ男」同様「座り男?」 塩釜の空(9.21) 塩竃神社の私のお気に入りの場所「悟りの小径」 朝8時に家を出て、塩釜駅には11時着、「塩竃神社」を経由して、お墓のある七ヶ浜まで歩きました。 「慈しみの像」 ここに「美智子」「父」「母」が眠っています。 その日は秋晴れ、やや暑い日でした。 リュックを背負いつつ歩いていると、昨年の「四国お遍路旅」を思い起こしました。 ただ黙々と歩いた記憶が甦ります。 これまでは時間が出来ると必ずと言って良い程、利府に行っておりました。 いや母に会いに行っておりました。 もう何年も利府との往来生活をしていますと、足が、心が、自然と利府に向いてしまいます。 とくに最近しばらく鳩山荘に籠っておりますとなおさらです。 「もうお彼岸か〜」と思いますと、何やら急に「落とし物に気付いた」かのように、墓参りを思い立ちました。 お墓の前に立った時、一抹の寂しさはどこかに消えて、妙に清々しささえ感じました。 今回の墓参りは私にとりましては小さな「巡礼」の旅だったようにも思います。 この日、歩くこと3時間、15Kmを歩きました。 帰りの新幹線も満席の中、幸運にもたったひとつ空いた席に座ることができ、夜8時すぎに鳩山に帰宅しました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 27日(土曜日)は親しくさせていただいている「今西三典先生米寿記念演奏会」に伺いました。 先生の指導されている4団体の方々の演奏で、私の「みすゞこのみち」を初め「水のいのち」などを指揮されました。 「私は年寄りなどと思ったことがない」という今西先生。 この日、奥様にはお会いできませんでしたが、先生ご夫妻はお互い鹿児島での学生時代からのお付き合い。 先生は鹿児島大学を出られてから東京芸術大学に入学・卒業されたのでしたが、その間、奥様が生活を支えておられたとのこと。 私の歴史と似ている、という親しみも加わってのお付き合いでもありました。 「さっき女房から私の姿勢が悪い、とメールあったよ」などと笑っておいででした。 奥様は今年ご病気になられ本調子ではないので会場を早く後にされましたが、お嬢様がふとこんな事をお話下さいました。 「母が申しますに、昔を思い出すと、貧しいあの時代がとても懐かしい」とのことでした。 それを聞いて私は勝手にジーンと来てしまいました。 私たちもそうだったからです。 お二人のご健康を心からお祈り申し上げます。
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HP通信NO.393/ 2015.9.20 秋が少しずつ色濃くなる今日この頃です。 いつも散歩する林の小径では、歩いているとドングリが落ちてきます。 土の上には「コトッ」と。 道路の上には「コツン」と・・・・落ちる音がします。 蝉の声とバトンタッチをするかのように秋の虫の啼き声も賑々しくなってきました。 ここ鳩山荘は秋の風景に染まろうとしております。 ただ今は組曲の作曲に勤しんでいます。 一曲づつ出来たものから演奏者に手渡しています。 もうそろそろ全曲完成の約束の時期ではあります、がまだ半ば。 全5曲中、今は第4曲目に取りかかっているところです。 いつもながら「牛歩遅々(ぎゅうほちち)」のごとしです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 私は普段、政治の話はしません。 が、私の作品は「平和・祈り」をテーマにした作品が結構多いのです。 作品を通して私は「現代というもの」そして「生きる」「人の思い」について常に語ろうとしています。 「詩」を自ら書き作曲するのもその現れです。 例えば「Ave Maria」では典礼ラテン語の言葉の他に日本語でつぎのような言葉を入れています。 「戦争で流された母の涙は海の水のごとし〜」 今の日本で母が子を戦場に送り出す光景などあり得ません。 私たちの時代は平和です。 それが「でした」という過去形になって欲しくないものです。 私の合唱組曲「永久ニ(トコシナニ)」の中の2曲目に私の詩による「星の降る丘」という曲があります。 詩を紹介します。 「 星の降る丘 星の降る丘で母と子が夜空を見上げていました <人が神とともに在った時代> 星は人の子と大地の上に降りそそぎ 母は平和を祈り 子は未来を夢みる 時は静かに流れ 星はただじっと人と人の世を照らしている <人が人しか信じなくなった時代> 星の降る丘で母と子が夜空を見上げていました <人が神を喪(な)くした時代> 星の降る丘で母と子が夜空を見上げていました 何千年も何万年も変わらぬ星の輝きのもとで 何が変わったというのか 何が変わらぬというのか 人の上にそして人の世の上に 星の降る丘で母と子が夜空を見上げていました <人が人として地上に生きる意味を悟(し)った時代> 星は人の子と大地の上に降りそそぎ 母は平和を祈り 子は未来を夢みる 時は静かに流れ 星はただじっと人と人の世を照らしている 」 (この曲はYou Tubeでも紹介されていますのでお聴きになってみて下さい。) 内容を簡単に記してみます。 「星の降る丘で、母と子が夜空を見上げていました。 人が神とともに在った何千年の昔のこと。 母は平和を祈り、子(この場合の子とは女の子です。何故なら男は闘うからです。)は未来を夢見ます。 その夢とは平凡でも幸せな世界です。 <人が人しか信じなくなった時代>さらに<人が神を喪くした時代>、 時代がだんだん移っていきます。 何百、何千年の時間の中で、人は常に平和を祈り求めながら <何が変わったというのか 何が変わらぬというのか 人の上にそして人の世の上に>と語っています。 人の世は争いの歴史です。 そして<人が人として地上に生きる意味を悟(し)った時代>・・・・これはつまり未来です。 「生きる意味を悟(し)った時代」とは、人がこの世界で戦争もやめ、平和の世界のことです。 さてそれはいつになったら来るのか・・・・・・・・」 そういう思いでこの作品は描かれています。 その続編となる「楽園」(詩は私です)でも、「人の愚かな戦いの繰り返しの歴史の中で祈りと理想の世界」を描いています。 時代というのはいつも目の前のことしか見ません。イヤ見えません。 時代というより「人」が、です。 「今」の「都合」を優先させてきたからこそ「歴史は同じことが限りなく繰り返されてきた」とも言えます。 人間は「人の永い歴史」の中で何を学んできたのでしょう。 結局、「人」は歴史を学べないように、そういう「習性」なのかもしれません。今が良ければ「良い」というように。 歴史を見るとまさに面白いように繰り返しの連続ですね。 ある人が言っています。 人が神(信仰)を失ったら次に何があるのか?。 それは「芸術」です。 私も同感です。 何故ならそれははっきりしているからです。 人の世の中で「芸術は常に理想の世界を描いています」。 そこには戦争はなく、平和を求め、祈りの世界があるのです。 ただ今作曲しているもの、次作品、さらにこれから作るものは、私にとってそれがテーマです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ まあ、ともかく今の作曲を早く完成させなければ。 演奏者との約束も遅れていることですし、ご迷惑をおかけしているので・・・・・・。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9月は比較的家に居る日が多く、毎日1時間以上は歩いています。 少々の雨でも歩きます。 これから本格的な秋日和の日も多くなる事でしょう。 歩く事が大好き人間としては楽しみな季節となってきました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ <新刊案内> この1.2年、「お知らせ板」でご紹介すべき<新刊案内>を怠けていましたので今回アップします。 詳しくは「お知らせ板」をご覧下さい。 アップする新刊。 混声/関白宣言 混声/今が美しい 女声/三つの聖母マリア賛歌 混声/三つの聖母マリア賛歌 混声/平和という果実 11月1日は鹿児島/霧島市で「第30回国民文化祭かごしま2015」「少年少女合唱の祭典」が行われます。 合唱祭のチラシ お近くの方、宜しかったらお出かけ下さい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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HP通信NO.392/ 2015.9.11
先日の台風は久しぶりに関東も大嵐でした。 「鳩山町」も「警報」とTVで見た、と幾人かの方からお見舞いをいただきました。 なにせ我が家はガケ(?)の上にあるものですから。 自然災害は人間のなす術もなく、ただ嵐が通り過ぎるのをじっと堪えているしかありません。 昨年のこの時期は「四国お遍路」をしていました。 台風には一日だけ遭いましたが、おおむね好日続きの天候に恵まれました。 たしか昨年の「今日」は土佐の海を見ていたはずです。 懐かしい風景が甦ります。 また「歩きたい」とあの土佐の海の色、空の色を思い浮かべています。 6日は日立市民混声合唱団の第33回の定期演奏会がありました。 日立市民混声合唱団ホームページ→http://shimincon.jimdo.com/ 下の写真はそのホームページから転載したものです。 この日、私の「三つの聖母マリア賛歌」(混声版)が初演されました。 指揮は佐川文雄先生。 上の写真は「地球ばんざい」(詩・まど・みちお)を指揮しているところです。 (下の写真=小さくてごめんなさい)さらに「平和という果実」(混声三部版)=作詩・金子静江先生=の初演も行われました。 指揮は私、ピアノは蕗子さんです。初の共演でした。 下の写真は詩人の金子静江先生ですが、蕗子さんは静江先生のお嬢さんです。 この日、静江先生そしてご主人とも栃木県・日光市からお出かけ下さいました。 下の写真は即売会でのサイン会の模様。金子静江先生とともに。 さらに蕗子さんの二人のお嬢さん方には「音楽ほほえみ基金」のCD「日本こころの歌」の即売会のお手伝いをしてもらいました。 楽譜新刊二点「三つの聖母マリア賛歌」「平和という果実」、「日本こころの歌」CD即売会の様子。 左から次女のMさん、長女のSさん、隣はカワイ編集の木村さん。 和田家総出演の一日となりました。
さてさて今朝の空は秋の空。 秋は芸術の秋、とも言います。 静かな季節になり、上で書いた「黙筆」ではありませんが、静かな自分の時間を持ちたいものです。 |
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HP通信NO.391/ 2015.9.1
もう9月になりました。 急に秋の気配が感じられるようになりました。 しかし、そう簡単に秋がやってくるでしょうか。 時節に関しては、常に予想が崩されていますので、疑心暗鬼。 しかしつかの間でも、夏の疲れを癒し、本格的な秋を迎えたいものです。 ことに今年の夏は私には少し身体に堪えました。 それが老齢に関わるのものなのか、気になるところです。 自身ではいつも変わらず若い気でおります。 電車ではお年寄り(?)にいつも席を譲ってはおります、が、(嬉しいことに)私はまだ席を譲られた経験はありません。 いつも行く接骨院の院長と先日治療を受けながらさりげない話をしておりました。 その院長はまだ若いお兄さんではありますが、まさか彼のお父さんと私がほぼ同年とは?と驚きました。 そして私が「え〜!」と驚くと彼はこう言いました。 「鈴木さんのようにオジサンではなく、私の父はもうオジイさんですよ。鈴木さんはまだ若い!」と。 嬉しいような、デモ「オジサン」という言葉にまだまだ抵抗力を感じる私であります。(どう見てもお兄さんには見える筈もないのですが) 今年の夏には堪えたと書きましたが、それに加えて物事に億劫になっているのは確かです。 池波正太郎先生曰く。 「それすなわち、老化なり。」と。 しかし最近、婚約をしたということで皆さん「冷やかし(?)」かどうか分かりませんがよく言われます。 「先生、若くなりましたね。」と。 何はどうあれとにかく、人様から「若い」と言われるのは嬉しいことです。
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HP通信NO.390/ 2015.8.21 昨夜、9日ぶりに鳩山荘に帰宅しました。 12日から仙台へ行き、母の初盆、お墓参りなどをして、16日からはそのまま鹿児島/霧島市へ向かいました。 霧島では国民文化祭のリハーサルと打ち合わせ。 「第30回国民文化祭・かごしま2015 少年少女合唱の祭典」のテーマソング「歌よ あの大空に」(作詩:村田さち子)を担当しました。 今回はそのリハーサルでした。会場は霧島市民会館大ホール。 県内の9つの合唱団、総勢280名の皆さんとオープニングの練習では本番さながらに熱の入ったリハーサル。 上の写真がその時のものです。 霧島市の少年少女合唱団とのお付き合いはもう10年以上になります。 以前、コンサートをした時に小学生だった子供が今は高校生。 その子供が「ワタシ覚えてますか?」と来ました。「もちろん」と私。子供たちとの交流をとても懐かしく嬉しい思いをしました。 ペットボトルにも今回のイヴェントのロゴが。 合唱祭のチラシ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 昨日、9日ぶりに帰宅をした訳ですけど、体重計に乗るのがコワイ!。 食いしん坊の私のことですから、各地でこれぞ!と思うものの食べ歩き。 今回は蕗さんと下のお嬢さんも同行しました。 長崎では美味しい「長崎ちゃんぽん」を目指して2件の店を「はしご」したほどでした。 どの地域も私にとっては何度も歩いた所ですので、蕗さんとお嬢さんを張り切って連れ回しました。 簡略ながら小紀行を記します。 16日17日は霧島市に滞在、18日は鹿児島市内を観光。 城山公園から桜島を観ました。ただいま「噴火」で厳戒体制ということでしたが、地元の人は厳戒態勢など「何のその」。 報道される内容と、そのギャップがいつ行っても鹿児島市は面白いです。 夕方長崎市へ。 グラバー邸、浦上天守閣、眼鏡橋、中華街ではちゃんぽん、皿うどんを食べ、稲佐山の展望台では世界三大夜景を堪能。 19日午前、 オランダ坂、長崎平和公園、原爆投下記念跡、26聖人像、長崎歴史文化博物館へ。 昼過ぎの電車で博多に。 夜は霧島でご一緒した「ボデイパーカッション」の山田俊之先生のご案内で博多の「水炊き」を大変美味しくいただきました。 スープだけでも絶品。 翌20日午前は太宰府天満宮へ。 午後の飛行機で帰京。 またたく間の9日間でした。 ところで・・・・・ 今年の夏ほど行き先々で中国人の「群衆」と鉢合わせになったことはありません。 先月の京都でも、有名なお寺や、京都祇園の花見小路などでは路を埋め尽くすほどの大集団と遭遇。 そこは京都情緒溢れる私のお気に入りの風景なのですが、中国人で路地が埋まる程の賑わいに変身していました。 長崎でも平和公園、また博多の太宰府天満宮などはオーバーな表現でなく人ごみで歩けないくらいのごったかえし。 「中国人はホントは日本がとても好きなようですね。」 これだけ観光で日本を訪れるのですから。 この分でいくと「日中友好などいとも簡単」「難しい外交もスンナリ」と「行かない筈がない」とさえ思えます。 博多では毎日のように一日に5000人クラスの大型客船が(長崎では3日に一度)渡来とのこと。 天満宮には毎日バス60〜100台が乗り入れをするらしい。 外国のお客様が日本にみえるのは日本人として嬉しくないはずはありませんが、しかしその数や、ケタを外れています。 一瞬「ここが日本ではない」という錯覚を覚えるほどです。 夏に仕事であちらこちらに出かける時にはいつも「子供」に警戒をしている「私」です。 電車や飛行機ではゆっくり寝ることもできないので「子供警戒注意報」です。 最近では外国人です。これを差別と受け取って欲しくないのですが、単に「声が大きい」ことが理由です。 九州では少し遊び過ぎました。 そして食べ過ぎました。 仕事も滞ったままです。 食事もまた日頃の節制に戻し、仕事も勤勉に励む事とします。 それでは残り少なくなった夏ですが、どうか皆さま、お健やかにお過ごしになりますように。 ...................................................................... 9月6日、日立市で下記のようなコンサートがあります。 お近くの方で関心のおありの方は是非お出かけ下さい。 |
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HP通信NO.389/ 2015.8.10 再々、ウッドデッキの自慢! 先月25日に完成してから、毎日のように、ここで食事、そして夕時にはビール・ワイン「タイム」を楽しんでいます。 下の写真のように、床が取り外しが出来るようになっています。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 毎日毎日、猛暑の日々。 皆さまにはいかがお過ごしでしょう。 昨年の今頃はバチカンでの作品献呈のために、珍しく自筆で楽譜を書いていました。(いつもはパソコンで楽譜を書いています。) 普段はクーラーは使いませんが、さすがに汗で五線紙が濡れてしまいますので、毎日しっかりとクーラーをつけた生活をしていました。 それが一年前です。 今年も暑いですが、昨年の暑さと比べるとどうだったのか、など忘れてしまっています。 人の感覚というのは「のど元過ぎれば熱さを忘るる」・・です。 昨年の「暑さ」が「どうだった」かなど忘れている人が殆どのことでしょう。 私は自身で「忘れることを良しとする」というスタンスで最近おりますので、尚のこと、忘れる事が多いといえば確かに多い。 先月の京都の演奏会の折に、京都のお寺などを観て歩きました。 昔は熱心に、仏像、寺院仏閣などについて勉強したものですが、そういう知識などむしろ「忘れているくらいでちょうど良い」、 という心境で最近はおります。 昔は「モノゴト」を観るのにはまず「知識」が大切であり重要なことでした。少なくとも私にとって・・・・・・。 つまり「識(し)る」ことです。 それなくしては「理解」を広め深めて行くことは出来ない、と考えました。 これは当然と言えば当然な成り行きです。 しかし、最近はむしろ「忘れるがいい」と思うほどになりました。 これまで「蓄積した知識や常識など」の尺度でモノを観るのではなく、自身の「眼」「感じ方」「心」で観る、 これが私には何より大切なことのように思えるようになりました。 大雑把に言うと他の事でもそうです。 それでも「尚、忘れられないこと」、これが自身の血肉になっているとさえ感じます。 「進化か退化か」、それとも単に「ものぐさ」になっているだけか。 先日の京都でのことは蕗さんが一緒でしたので、案内をするようにお寺などを巡りました。 やはりこれまでと違った「眼(め)」でこれらを視(み)れたような気もしています。 京都・大原三千院にて蕗さんと。 京都の箸尾哲男先生がご案内して下さいました。 今年は珍しくクーラーを使う日が多くなっています。 私の感覚でいえば今年は昨年よりかなり暑いのでは、と思っていますが、 これも単に加齢のせいで「暑さに堪えられなくなった」ということになるかもしれませんが。 この暑い夏はいつくらいまで続くのでしょう。 やがてまた新しい季節になることを心待ちにしたいものです。 今年のお盆は母の初盆です。 利府でお盆を過ごし、そのまま鹿児島・九州を回ります。 ただ今作曲中のもの、脇に抱えてまたあちらこちらと参ることになりそうです。 まだまだの猛暑、皆さま、くれぐれも御身大切になさって下さい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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HP通信NO.388/ 2015.7.30
祈り三部作のついてトークをする当間先生と私。(京都文化博物館別館ホールにて) 7月25日、京都にて「祈り三部作」の上演が行われました。 指揮は当間修一先生、合唱は京都モンテヴェルデイ合唱団、ピアノは木下亜子さん、沖田明子さん。 「地蔵礼讃」「祈祷天頌」「永久ニ」、いずれも私の詩に依るものです。 一作に3年から5年をかけて作曲したものです。 これらの曲は普通の演奏会でしたらそれぞれメインで演奏される曲です。 が、「祈り三部作」ということで一挙に演奏されるというのは初めてのことでした。 (一曲、大体20分程度ですので、全曲ですと1時間を超えます) 「地蔵礼讃」は20代、「祈祷天頌」は30代、「永久ニ」は40代後半の作品になります。 「祈り三部作」という表記が、友人と話すうちにこういうことになったのか、「いつ・誰によって」なされたのか覚えがありません。
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HP通信NO.387/ 2015.7.20 蝉の声も賑やかになりました。 夕方ともなると「カナカナ蝉」が啼きだします。 その風情が私は好きでたまりません。 私は時代劇や本も時代モノが大好きなものですから、蝉の声に誘われて、はるか遠い昔に思いが運ばれる感じがします。 その懐かしい「思い」とは、人の記憶というかDNAに刻まれているのかもしれません。 仏教のひとつの思想に「唯識論」というのがあります。 今から15年程前のひと夏、これを勉強したことがありました。 人の記憶や、経験、観念などが「阿頼耶識(アラヤシキ)」という深層心理に蓄積されていて、それが何かの折に呼び起こされるというものです。 「ヒマラヤ」という語は「雪が蓄積したもの」をいいます。。 人の感覚、意識、無意識、さらに深層心理までもがそれぞれに絡み合い、 「人という存在」さらに「空」という「無」の思想まで論理的に展開しています。 (ある時、人にその資料を貸したままになっており、それが誰に貸したのか覚えておらず、ここで詳しくご紹介できないのは残念です。) 「懐かしいもの」というひとつの概念は、深層にある「阿頼耶識」から呼び起こされるものという考えに 「目からウロコ」だったことを思い出します。 蝉の啼き声を聞いて、私なりに「懐かしいという思い」は、それは何処からくるのか。 それはとてもミステリアスで、「スピリチュアル」(宗教的・ 精神的な物事、または、霊の、魂の、精神の、 超自然的)な問題です。 私の友人で「前世」に興味を持ち、研究もし、信じている人がおりました。 彼は自身の「前世」を知っていました。 彼(故人)とは屋久島で、東シナ海を180度展望できる「灯台」の下で、自身の体験談を日暮れまで聞いたことを昨日のように思い出します。 「阿頼耶識」という領域はもしかすると「前世」をも含むかもしれません。 信じない人には「荒唐無稽」な話でしょう。 ですが私はこのテの話が大好きなのです。 全日本合唱連盟の季刊誌「ハーモニー」で私の特集記事(座談会)が組まれました。 出席者:鈴木憲夫、当間修一先生(指揮者)、松野満男氏(カワイ元編集者)、中村禎子先生(指揮者) 興味のある方は http://www.jcanet.or.jp/ メール→ harmony@jcanet.or.jp にお尋ね下さい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 当間修一先生指揮の「京都モンテヴェルデイ合唱団」の演奏会で、私の<祈り三部作>が演奏されます。 お近くの方、宜しかったらお出かけ下さい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さてさて、テラスにウッドデッキの工事が始まりました。 次回の更新時にはここでご紹介できるでしょう。 私はウキウキ楽しみです。 それまでごきげんよう。 |
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HP通信NO.386/ 2015.7.10 このところ連日鬱陶しい梅雨空でしたが、本日は「つゆのひぬま」(梅雨空のさ中、一日陽をのぞかせる日のこと)。 家中の何やらカビ臭いも久しぶりに窓を開け、空気の入れ替えをしました。 とは言っても、我が家はただ今外装の塗装中ですので、ペンキの匂いも混じってまだまだすっきりしないところです。 まもなく完成の見込み、待ち遠しい限りです。 7月5.6日は群馬/前橋で第38回おかあさんコーラス関東大会での選考委員を務めました。 左から指揮者の本山秀毅先生、声楽家・指揮者の鈴木茂明先生、指揮者の片野秀俊先生、声楽家の大志万明子先生、そしてワタシ。 片野先生、大志万先生とはもう数十年のお付き合いになります。 お会いすれば昔の話も。お二人とも昔から変わりません。講師室では和気藹々。両日で91団体の演奏を聴きました。 いつもながら「おかあさんコーラス」は賑やかで楽しいものです。 上で書きましたが、ただ今、屋根の修理、そして塗装をしていますので、家はシートで覆われ、家の中は穴蔵状態。 散歩に出ようと思っても結構寒い日があったり、雨続きで散歩もままならず、工事の音で仕事も集中できなかったりで私自身も鬱々とした状態でした。 普段ならそう言うときは本を読んだりするのですが、本の読み過ぎで目はショボショボ、映画も観たいと思うものもなく、 今回は久々に<退屈>の中に身を置く事となりました。 <退屈>は人間にとって最大の<敵>と言ったのは誰だったか。 さらに<退屈は墓場への第一歩>とも誰が言ったのやら。 またある演出家(名前を思い出せません)は<良い舞台とは退屈を嫌う精神に基づくものだ>とも言っています。 また音楽でも最良の形式とは<興味の持続>という言葉もあります。(これは作曲家ラヴェルだったかフォーレだったか、はたまたゲーテだったか) 人は<飽きる生き物>なのですね。 飽きたらやめればいい、のですが、さすがに生きるとなるとそうも言ってられません。 <飽きない工夫>をすれば良いのです。 人は<工夫をする生き物>でもあるのですから。 毎日の生活で<食べること>も大変な工夫を要します。 同じものを食べていたら飽きます。 飽きないために食材・料理などを工夫するわけです。 私は毎日食事を作っている立場ですから、世の主婦の方たちは毎日大変だと思います。 ただ飽きる、飽きない、の問題ではなく栄養のバランスも考えるのですから。 酒もいつも同じということはなく時折種類を変えます。ワイン、ウイスキーそれもスコッチだったりバーボンだったり。 また焼酎、日本酒などと、その時の気分次第です。 とにかく人は<飽きる>ことを嫌い、飽きないための工夫・努力しているとも言えます。 <飽きる>、と、もうひとつ人生に於いて<敵>といえるのは<孤独>です。 自作の「マザーテレサ 愛の言葉」という作品の中でマザーテレサの次の言葉を引用しています。 「だれもそばにいてくれない 誰からも愛されない孤独こそ 人間の経験することのなかで 最悪の病気なのです」 (第一曲目「だれもそばにいてくれない」) 私の友人知人の中で<退屈>と<孤独>で人生を「はかなんだ」人間が三人います。 何も手助けしてあげれなかった後悔があります。 「あの時言葉をかけてあげていれば・・・」「もっと気遣いをしてあげていれば・・・」という思いです。 結局、だからといってどうだった、かと言えば永久の謎ですが。 ですから私はどちらかというと、いつの間にか<おせっかい人間>の部類に入ってしまったようです。 あるとき、友人夫婦の「ケンカ」を離婚の危機と勝手に思い込み、過分におせっかいを働いたことがあります。 その時友人からこう言われました。 「あのサ〜、間違うとホントに離婚しちゃうことになったかもよ」と。 今思い返せば冷や汗モノです。 本日、久しぶりに自然の中を充分に散策し気持ちも晴れやかです。 遅れていた仕事も間もなく挽回できるでしょう。 人は<飽きる>生き物と同時に<気分>の生き物なのですね。 明日から宮崎です。 台風が心配ですが、宮崎の皆さんの明るい「雀がさえずる」ような話し言葉を聞くのが楽しみです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 当間修一先生指揮の「京都モンテヴェルデイ合唱団」の演奏会で、私の<祈り三部作>が演奏されます。 お近くの方、宜しかったらお出かけ下さい。 |
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HP通信NO.385/ 2015.6.30 6月も終わりです。 先ほど午前中に散策しましたら「蝉」の声を聞きました。 今年初です。初々しくか細い声でした。 まだ「赤ちゃん蝉」なのでしょうね。 私にとってこの6月は「じっくりとした」月でした。 作曲も少し勤勉に、外に出かける用事は少なく、毎日、どちらかと言えばノンビリとした日々でした。 先週、27.28日は日立市でのコンサートのリハーサル、また宇都宮での講習会などに参りましたが、 写真が届きましたらここでその模様を追加してご紹介したいと思います。 6月27日、日立市民合唱団のリハーサル風景。 9月6日の本番に向けて「地球ばんざい」を練習中。 6月28日、宇都宮で行われた「合唱講習会」。 今年で3年目です。組曲「二度とない人生だから」を毎年2.3曲ずつ練習しています。 中央にいらっしゃるのは会長の萩野久一先生。 ノンビリとした生活ですと、時間もそれなりの「感覚」で過ごすことが出来るものです。 新幹線から観る外の風景は「瞬く間」に過ぎて行きます。 普通の電車ですと外の風景も余裕を持って観ることができます。 それと似ています。 40代以降、50代、60代はあっという間に過ぎる、とよく言います。もちろん私も同感です。 それは上で書いたまるで新幹線から観る風景と似ています。 子供の頃〜若い頃は、観るもの聞くもの全てが新鮮で感動で、「じっくり」と眺めたりしたはずです。 その分、時間が凝縮して感じられたと思うのです。 「時間があっという間に過ぎる」という感覚は、周りの世界に対する新鮮さや感動、また刺激(精神的な)が薄れてきている、 多くの事に慣れきっている、ということになるのかもしれません。 今月は「じっくりと」鳩山に居たものですから映画(DVD)もよく観ました。 今年に入って既に100本以上は観ています。 TVは殆ど観ません。 ただ毎週欠かさず観るのは、NHKの「クラシックアワー」くらい。 純粋にクラシックを楽しむ、というのではなく、「見方」が少々イジワルというか変わってるかもしれません。 「守(しゅ)・破(は)・離(り)」という言葉があります。芸の世界での言葉です。 (出典は「花伝書」だったか「徒然草」だったか) 「守」というのは「形を学ぶ」ということです。師匠の技を覚える、また伝統の技術を身につける、ということを言います。 「破」とは「守」を経てやや自分なりの工夫を加える、ということです。 「離」とは、これまでの経験を積み活かし、その人独自の世界を築く、というものです。 「クラシックアワー」に出演する指揮者や演奏者をいつも、私はその「守破離」という観点から観る「面白さ」を味わっているのです。 かなりイジワルな見方だと思いますけど。 私としては「離」の境地を観たいのです。が、なかなかお目にかかれません。 「それではオマエは?」ということになりますが、自身の姿は見えないものです。 「人の目を通して」見えるもの、それがある意味での「自身の姿」と言えましょう。 つまり「鏡」なのですね。「他人の目」さらに「社会」という「鏡」に映し出された自分、それがその人の個性とも言えます。 クラシックアワーを観て、「守・破・離」という観点で観ている人なんか恐らくいないでしょう。 でもこんな見方も面白いものですよ。 鳩山にこれほど「じっくり」と滞在したのは初めてのことです、多分。 これまででしたら、わずかでも時間が取れれば利府に行っていたものです。 そんな訳ですので、目下、屋根の修理や外壁の塗装など、家の改装中。 またテラスを全面にウッドデッキにする予定です。 今週から工事に入りました。人の出入り、工事の音で仕事は一時頓挫。 しかし、しばらくすればすっかり様変わりした家に変身することでしょう。 楽しみです。 いずれ皆さまにご覧に入れましょう。 7月はまたあちらこちらと各地に出かける用事もあります。 そのうちに今日啼きだした蝉の世界がやってくるでしょう。 それでは次回の更新までごきげんよう。 |
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HP通信NO.384/ 2015.6.19
故・威(たけ)成一君 家内が亡くなった時に、いち早く都内から鳩山までバイクで飛んできてくれもしました。 |
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HP通信NO.383/ 2015.6.9
先週の週末、久しぶりに仙台に行ってきました。 |
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HP通信NO.382/ 2015.5.29
先週24日は日立市民合唱団の練習場を訪れました。 |
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HP通信NO.381/ 2015.5.20 5月8日に前回HPの更新をしてからずーっと旅の空の下におりました。 5月9日から福井〜仙台〜鳩山に一旦戻り、15日から北秋田市〜市川〜仙台、と慌ただしい日を過ごしました。 5月10日は福井市の県立音楽堂にて「男声合唱団ゴールデンエイジふくい」のコンサートが行われました。 会場には入りきれないほどのお客様が。1.200席、全て埋まりました。 コンサートのテーマは「我が青春時代・そして明日へ」。 構成も演奏も素晴らしく、聴衆、おそらくどの人も感動したコンサートだったと思います。 左から団長の斉藤さん、ピアニストの木津さん、私のお隣が指揮者の田中幸一先生。 上の写真は打ち上げですが、右の写真、私の婚約お祝いという場も作って下さり、輪島塗の工芸品も頂戴しました。 この日、私は「二度とない人生だから」を指揮。 ゴールデンエイジは今年で結成10周年。 当初10数人で立ち上げた合唱団ですが、現在75名。 条件は合唱経験有無を問わず、ただ60歳以上であること。 団長の斉藤さんを私はひそかに「福井の観音様」と呼んでいます。 この調子でいくと100名の団員も夢ではない、勢いです。 昨年、坂村真民記念館でご一緒した皆さんもお客様として福井にお出まし下さいました。 真民記念館館長ご夫妻、男声合唱団ジェントルゲサングと指揮者の宮本先生、香川の丸亀男声合唱団の皆さん、 いずれも「二度とない人生だから」がご縁でした。 15日からは北秋田市へ。羽田空港から大館・能代空港へ。 空港から10分ほどで北秋田市。 下の写真、私のお隣が三澤由美子先生。三澤先生の指導されている3つの合唱団の指導に伺いました。 昨年も招(よ)んで下さいました。 女声では「めぐりあいの中に」「ひとひらの花びら」そして「マザーテレサ 愛のことば」 混声では「ほほえみ」「二度とない人生だから」を皆さん、練習して下さっていました。 とてもレヴェルの高い合唱で、楽しく皆さまと過ごさせていただきました。 私のお隣が三澤先生。妹さんと昨年のバチカンコンサートにも参加下さいました。 18日は市川市のコールベルへ。 この日、練習を終えてから婚約記念昼食会。 お花を頂戴しました。 コールベルの皆さんとはもはや身内同然のお付き合い。 女房を亡くした後の私のことも随分と気遣ってくれました。 そういうお付き合いですから質問も時折「生々しく」もありました。 一転して「婚約記者会見会場になりました」 「お嬢さんたちには何と呼ばれていますか?」→「普通に憲夫さんです。上の子は一緒にバチカンに行ってますから時々ノリオーネと。」 「お父さんとかパパとか呼んで欲しいですか?」→「イヤ〜、私にとって二人のガールフレンドができたようなものですから」 「入籍はいつ頃ですか?」→「その内に」 「蕗子さんは鳩山には何度くらい行かれましたか?」→「ほんの数えるくらいです。遠いですから」 などなど・・・・・・・・・・・。 行く先々でお祝いムードです。 始終、テレテレし通しです。 たくさんの方からお祝いの品や、お祝いメールなど頂戴しています。 メールには「冷やかし」も大分あって、つい声を出して笑ってしまうものもあります。 「写真お幸せそうですね、先生、お鼻の下がなが〜いですよ」とか。 「マノンちゃん、ヤキモチなんか焼いていませんか?」というのもありました。 何を思って生きているのやら・・・・・ そう、ネコは何も考えないんです。 何かを思って生きているのです。 ですが、日向ぼっこをしているこの時のマノンは「何も考えず、何も思っていない」。 6月は比較的鳩山に居る時間を作っていますので、作曲の仕事に精を出さねばと思っているところです。 今度もテキスト(詩)は殆ど私が作りました。 テキストがまとまりやっと作曲を開始したところです。 委嘱下さった合唱団の皆さん、もう少しの間、お待ち下さいませ。 新緑に覆われた鳩山の自然を歩く生活が楽しみです。 それでは皆さん、どうかご機嫌麗しくお過ごし下さいますように。 |
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HP通信NO.380/ 2015.5.8 ご紹介いたします。蕗子さんです。 5月3日(日)塩竃神社にて婚約の儀を行いました。 この日、蕗子さんのふたりのお嬢さんと私の従兄弟が立ち会ってくれました。 鳥居の下でお嬢さんたちと。 ちょうど連休のさなかでしたので、大勢の参拝客の中、本殿の前で指輪を「贈る」儀式をしましたところ、周りの方から拍手が。 本殿で「祝詞」を挙げていただくという本当にささやかな婚約の儀でした。 その後、松島湾観光、それから利府の家で叔母の家族がお祝いをしてくれました。賑やかにそして楽しく和やかな晩餐となりました。 蕗子さんの二人のお嬢さんはとても可愛らしく、私にとり家族というより二人のガールフレンドが出来たという感じです。 上のお嬢さんは蕗子さんと一緒に昨年のバチカン演奏旅行にも来てくれました。 下のお嬢さんはただ今大学4年で就職活動で大忙しです。 二人とも東北は初めてというので、翌日は岩手・平泉に遊んできました。 4日の夜は盛岡の友人、澤口さんのお宅に二人で伺いました。(あいにく写真を撮り忘れました) 澤口さんとは学生時代からの友人で、ご夫妻そろってバチカンに来ていただきました。 もちろん蕗子さんともバチカンで楽しく過ごしましたので、バチカンの想い出話にも花が咲きました。 澤口さんは教員の傍ら「俳人」でもあります。号は航悠。 帰り際、最近刊行された句集「霜柱」の扉裏に、蕗子さんのために句を添えて献本下さいました。 「蕗の薹(ふきのとう)温かきまま摘まれけり」 翌日は日光市にお住まいの蕗子さんのご両親に挨拶に寄りました。 お母様の金子静江先生は「平和という果実」「和枝という名のバラ」の作詞者です。 「平和という果実」はそもそも児童合唱のために作られたものでしたが、最近では女声合唱として歌われています。 塩釜ではおいしい「海鮮丼」平泉では「わんこそば」に歓声をあげ、連休の慌ただしいなか、楽しい思い出深い東北小旅行でした。 蕗子さんのことをここで簡単に紹介させていただきます。 武蔵野音楽大学ピアノ科を卒業、現在、上のお嬢さんと講師4人とで都内二カ所で音楽教室を経営しています。 ピアノのみならず、リトミック、ボデイパーカッションなども指導しています。 ボデイパーカッションを使っての福祉施設にての訪問、また児童問題、東北の災害復興に関わるなど、活動はとてもパワフルです。 私より大忙しの毎日です。 お母様の静江先生とのご縁で昨年4月からの付き合いですので、まだ日は浅いといえば浅いです、が、 万事に折入り、よく気がつき、私の親戚にも自然にとけ込み、人に余計な気遣いをさせず、 すでに私のスケジュールも頭にいれてくれています。 母と蕗子さんが共にした時間は少ないのですが、亡くなる間際、蕗子さんに私の事を託して母はあの世に旅だって行きました。 今回の婚約は母が私の背中を押してくれたような気がしています。 生活の場はかたや都内そして鳩山ですので、ひとつひとつ「山」を越えて行かなければならないものもたくさんあります。 それらをこれから共にじっくりと考えていく、この婚約が私たちの新しいスタートです。 今後、各地でのコンサートなどに同行する機会も多いと思いますが、どうか皆さま、蕗子さんのことも私同様、 どうか宜しくお願い申し上げます。 婚約のご報告まで。 |
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HP通信NO.379/ 2015.5.1
いよいよ5月に入りました。 とくに今年の冬は寒い仙台で過ごしましたので、ことさらに、5月の陽気が嬉しい今日この頃です。 新緑が芽吹き、鳥がさえずり、風が緑の葉の上をそよぎ、太陽の光が一日中降り注ぐ鳩山の春は美しいものです。 相変わらず、自然を散策しています。 連休のさなか、皆さまにはいかがお過ごしでしょう。 先週、4月23日は東京築地の朝日新聞社本社ビルにて、日本合唱連盟の季刊誌「ハーモニー」の座談会に出席してきました。 「夏号」に私の特集が組まれることになり、 大阪から指揮者の当間修一先生、宮崎から指揮者の中村禎子先生、元カワイ出版編集の松野満男氏の三名の方々が集まって下さいました。 私のこれまでの作品を中心に話が進められましたが、参加下さった皆さんとはそれぞれに永いお付き合いなものですから、 懐かしい、忘れかけたことも思い出したり終始和やかで楽しい座談会となりました。 この雑誌は夏頃に出るようです。 座談会終了後、皆さんと浅草に移動し「どぜう鍋」を囲みました。 下の写真は左から中村禎子先生、松野満男氏、当間修一先生、沖田明子さん(当間先生ご夫人) 「どぜう鍋」(どじょう)は初体験の当間先生、中村先生、江戸の風味を喜んでくださったようです。 そして下の写真は「もんじゃ焼き」のお店で。これは中村先生が初体験というので行きました。 「これっていくら食べてもおなか一杯にならんね。」と生粋の関西人の中村先生。 そういえば、当間先生ご夫妻も「もんじゃ初体験」の時は私が引率したのでした。 「ヘラはこう45度に傾けて、スーと手前に引いて手首をひっくり返す」なんて、妙に知ったかぶりでご指南をしたことを思い出しました。 皆さん、本当に旧いお付き合い。 松野さんとは私が20代の頃からのお付き合いです。 中村先生も当間先生も私の作品を通して2.30年来のお付き合いをいただいています。 いつしか月日があっという間に過ぎました。 「変わった」と言えばそれはたしかに変わりました。が、そもそもは「何も変わっていない」のです。 私たちが出会って以来「今こうしている」ことは既に予感されたものだと私には思えます。 そのようなお付き合いができること、これは人生において得難い「ご縁」というものです。 「縁」という言葉はひとつのキーワードです。 人と人との関係、物さえもそうです。 利府の家には今は誰も住んではいません。 利府の家との「縁」も薄くなって来たと言えます。 想い出はたくさんあっても「縁」が遠くなったものは如何にしようもないものと私は思います。 もし人と人の「縁」が「色のついた糸」として見えるなら、何とこの世は賑々しいものとなるでしょう。 「あの人とこの人の縁は赤色、また紫、また黒」と様々な色が絡み合うのが見えるとしたら、イヤたとえ見えなくとも、 そう思えるとしたら、人と人、さらに物でさえ、いちいちあだや疎かにできない面持ちになります。 前にここで書いたかどうか「縁」を識(し)る呪文があるのです。 それは「おかげさま」という言葉。 例えばこれまで出会った人の中で「憎々しい」人がいるとします。 その人の事を思い「おかげさま」という言葉を投げかけるとすると、その人によっていろいろ「学ばされた」ことを思い出す筈です。 そうするとその人との「縁」が見えてくるものなのです。 親子関係、夫婦関係、友人関係などなど・・・まさにそうです。 「縁」を切ることは簡単なことです。 |
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HP通信NO.378/ 2015.4.22 先週12日から14日までは「第7回国際シニア合唱祭/ゴールデンウエーブin横浜」 の講師として横浜におりました。 昨年も講師として参加させていただきましたが、今年も海外からの団体も含めておよそ100団体が参加して大盛会でした。 講師は安念千重子先生(声楽家)、池辺晋一郎先生(作曲家)、岸信介先生(指揮者)、桑原妙子先生(指揮者)、澤畑恵美先生(声楽家)、 清水敬一先生(指揮者)、辻志郎先生(指揮者)、古橋富士雄先生(大会・会長/指揮者)、松村努先生(指揮者)、 というそうそうたるお歴々の先生方でした。 楽しい3日間でした。 私の指揮する「コール・ベル」も13日出演し「横浜市長賞」を頂戴しました。 18日は鹿児島に行っておりました。 今年の国民文化祭は鹿児島県が主催県になります。 ジュニアコーラスは霧島市で開催され、そのテーマソングを私が作曲しました。 この歌は利府で作曲したものです。 母の四十九日の最中でしたが、元気な曲でしたので、毎日、外を歩いては作曲していました。 お披露目は11月1日。 作詩は詩人の村田さち子先生です。 今年もそろそろ動き出した、という感じです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ このホームページを立ち上げたのが2013年、それから当初は1週間おきの更新、(ただ、家内が亡くなった年は一年休止状態でしたが) 現在はほぼ10日おきの更新となっております。 ただ今、ホームページ作成ソフトは「Golive」(Adobe社)を使っていますが、このソフトは既に発売中止になっておりますので、 ヴァージョンアップもできずに、「もしただ今使用のパソコン・MACが故障したら」更新は不可能になってしまいます。 ということは「ある日突然に」このまま「更新もできずに」静止した状況になるということです。 手を打つべく考えてはいるのですが、 「今のPCが壊れるのが早いか」「新方式での立ち上げが早いか」というところが現在の状況です。 今の世の中の風潮はまさに私の「パソコン事情」そのままです。 壊れたら「それでオシマイ」、即買い替えです。 買い替えで済むならそれはマシというもので、このようにホームページのソフト自体が使えないとなると厄介なことです。 このホームページは今から12年前に、手探りで自身で立ち上げたものです。 当時、個人でホームページを持つ、という時代ではありませんでした。 今でこそ「ブログ」が一般ですが、最近の世の中の移り変わりの凄まじいこと。 新しいことをやるのが次第に億劫になってきました。 簡単に「歳だから」などとはいいたくはありません。 それを云うなら「新しいものに取り組むのが飽きた」ということです。 アメリカ企業の悪口を言うことになりますが、このソフトを例に言うなら、パソコン関連の企業はほぼ例外なく功利主義そのものです。 つまり、利益にならないものは「切る」それが「常識」になっている時代です。 私が使っている楽譜制作ソフトもアメリカ製ですが、次々とヴァージョンアップをして、今の私のPCでは使えなくなりました。 つまり新しい「パソコン」を買わないと使えなくなる仕組みです。 企業の「やりたい放題」は今の世界では当たり前になりました。 近くにチェーン店のクリーニング店があります。 そこではワイシャツの「たたみ料」が50円請求されます。 「たたみ」などは当たり前と思っていたのでしたが・・・・・。 昔々、「ナベ」の底に穴があくと修理をしにきた時代があります。 たしかに「古い話」ではあります。 葬儀も次第に様変わりしつつあると聞きました。 「葬式」をやらない世代になってきているとか。 病院で死亡するとそのまま火葬場行きというのも、これからは珍しくなくなってくるかもしれません。 先日は母の「四十九日」をつつがなく慎んで生活をしましたが、それすらもう「古い儀式」になっていくのでしょう。
鳩山に戻って2週間となりました。 相変わらず鳩山は静かです。朝、鳥の声で目を覚まします。 今年も「八重桜」の季節になりました。この路はアーチ状になっており毎年楽しみにしています。 今年は春満開の鳩山は観れなかったのですが、一足遅く、春の鳩山を楽しんでおります。 マノンとも久しぶりの対面でした。 毎日のように散歩途中のマノンの寄宿先の大橋さんのお宅の庭で会います。 やはり覚えているのでしょうね。 私の足音に反応して、時々顔を出してくれる時もあります。 私のお相手の「F子さん」のこと、気にして下さる方もお出でのようですね。 「その後どうなっているの?」と、人づてに尋ねられることもあります。 いずれこのHPにて紹介をするつもりです。さてどこをどこからどのようにご紹介したらよいものか・・・・。 ご報告ですが、この5月の連休の私の誕生日5月3日に「F子さんと婚約」をすることにしました。 F子さんの二人のお嬢さん立ち会いのもと、塩釜神社で簡単に行う予定です。 神前にて二人で「手をパンパン」しての「婚約の儀」です。 その誕生の日に私は「62歳」になります。 F子さんは52歳。 私の周りでは「10歳違いなど」珍しくはありません。 作曲家の「大中恵先生」はたしか30歳以上の差。 最近結婚された作曲のK先生などは40歳の差、と、伺っています。 近いうちに、その披露を致すこととします。 それでは今回はこの辺で失礼します。 |
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HP通信NO.377/ 2015.4.11
4月5日は神奈川県立音楽堂での「洋光台混声合唱団」の演奏会に伺いました。 満員の客席からは盛大な拍手、さらに歓声と、とても華やかで心に残る演奏会でした。 曲目は全て私の作品。 ・みすゞこのみち :指揮:土居規子先生 ・マザーテレサ 愛の言葉:指揮:川上勝功(かつのり)先生 ・二度とない人生だから:指揮:吉田孝古麿(こうこまろ)先生 ・日本こころの歌より:指揮は三人の先生によるバトンリレー。 ピアノは全ステージ須江太郎氏でした。 今回は吉田先生が全体の制作・プロデユースを務められました。 打ち上げ会場で吉田孝古麿先生と。
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HP通信NO.376/ 2015.4.1
利府も春の風景になりました。 利府に移り住んでほぼ半年になろうとしています。 11月の晩秋から冬を越え、そして春になりました。 母が健在でしたらもうしばらく利府に滞在したところです。 が、誰も住む人の居なくなった家を離れ、鳩山にそろそろ帰ろうと思っています。 3月29日に「四十九日法要」を終えました。 納骨も済ませました。 「墓石」を開けると、少しずつ土に還っていっている妻の骨の隣に、昨年没した父の新しい骨の入った麻袋が見えます。 そこに母が加わりました。 この次、この墓石を動かす時は私の時です。 何年先になるでしょう。 「もう少しの間、待っててね」と声をかけました。 とくに「お坊さん」に来てもらうでなく、私が「般若心経」と「舍利礼文」のお経を唱えました。 この日は小春日和でした。 こんな日に母の新しい住まいへの引っ越しをしました。 「四十九日」の間は「中陰」といいます。 ご存知のように「霊魂」が「この世にまだ留まっている期間」です。 そして「あの世」へと旅立ちます。 「死の世界」は誰も知りません。 落語で次のようなものがあります。 「あの世というのはとってもいいとこらしい、何故かって云うと<誰も帰って来ない、よほど良いところらしい>」と。 利府に運び込んだ荷物を少しずつ鳩山に戻す準備をしようとしているところです。 母の入院、手術、そして死去とあっという間の数ヶ月でした。 「四十九日」も終わりホっとしてはいますが、これから寂寥感というものも次第に味わうことになるのでしょう。 亡き妻美智子の時も感じたことでしたが、ボクシングで云えば「ボデイブロー」(ボクシングの用語で脇腹の連打)を浴びるようなものです。 強烈なパンチでなくジワジワと効いてくるものです。 鳩山でまた新しい生活が始まります。 「マノンは元気でいるかしら」、マノンに会うのも楽しみです。 マノンは覚えていてくれているでしょうか。 先日、ある人とお話をした時に、私が頻繁に漢文を引き合いに出したことでこう聞かれました。 「それはどこでどのように勉強されたのですか?」と。 私は勉強をしたという意識はありません。 音楽もそうです。勉強を強要されたことなど一度もありません。 「好きだから」こそなのです。 「オナカが空けば何でもおいしく戴ける、しかしコレは<身体に良いから食べな>と云われても苦手なものだったらそこそこしか口に入らない」 若い時ならいざ知らず、本来勉強というのはそうしたものだと思います。 私の好きな漢文の一節に次のものがあります。 「学は通(ツウ)の為に非(アラザル)なり、窮(キュウ)して困(クルシマズ) 意(ココロ)憂(ウレイエテ)衰(オトロエザル)為なり、禍福終始(カフクシュウシ)を知って惑わざるが為なり」(荀子) 意訳すればこうです。 「学問というのは世の中を渡る方便であってはならない(学歴や経歴の云々、知識のウンチクなど)。 学問というのは<窮した時に困らず、心が憂えても(元気がなく萎えても)衰えるものでなく、 禍福終始、つまり何が幸せで幸せでないのか、何が良くて悪いのか、何が真実で真実でないのか、 それを知ることこそが学問なのだ」ということになります。 私はこの言葉を知り、何事につけ自身の行動と照らすようになりました。 今回の母の事についてもそうです。 「今は母の傍に居ることが大切だ」と思えばそれが最優先となります。 私にとって自然な答えです。 他にも人生を左右するほどのたくさんの言葉を座右にしております。 <学は通ならず>を応用して考えれば<私にとっての音楽>も自ずと答えが出ます。 <何を目指そうとする>かで「その音楽のかたち」は違ってきます。 「何を目指そう」という意思がなければ「音楽もそういうかたち」なのです。 ・・・・・と私には思えます。 4月から相変わらずあちらこちらへと出て歩く事も増えてきます。 この間までは利府を根拠地にして動こうと思っていたのでしたが、これからは鳩山に根拠地を移し出かけることになります。 同時に新作の準備もしなくてはなりません。 また同時に新しい家庭の準備も考えています。 近いうちにそのご報告も致したいと思っています。 それでは春を心から歓び楽しみと致しましょう。 「 私の作品だけで構成されたプログラムです。 関心のおありの方は是非お出かけ下さい。 お問い合わせ:045−834−0224(TEL&FAX)鈴木 mail:youkoudai_mixedchoir@yahoo.co.jp |
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HP通信NO.375/ 2015.3.21
春分の日の今日はこちら利府は温かな一日でした。 お墓まで7kmを徒歩で3時間かけて往復してきました。 一昨日、塩竃神社をいつものように散歩していましたら鶯の啼き声聞こえました。 とてもきれいな「発音」「発声」でした。 「きれい」と言ったのは「訛り」がないということです。当たり前と云えばそうですが・・・。 まさか鶯が「東北弁」のわけはありませんが、ふと「こちらの鶯」は「普通に啼いているか」と耳をそばだててしまいました。 鳩山の鶯も今頃は春めいて賑やかなことでしょう。 しかし鶯の啼き初めというのは面白いものです。 本番を控えた歌手のように「発声練習」をしている感じです。 「ホーホケッキョキョ〜ン」などと、それがおかしくていつも歩きながら笑ってしまうのです。 私の作品だけで構成されたプログラムです。 感心のおありの方は是非お出かけ下さい。 お問い合わせ:045−834−0224(TEL&FAX)鈴木 mail:youkoudai_mixedchoir@yahoo.co.jp 昨日TVで報じられたのを偶然観ましたが「こども電話相談室」が終了したということです。 番組は50年続いたそうです。 車を運転していて、とくに聞くでもなくこれまで何度も聞いていました。 子供の質問も、またそれに対応する「先生方」の答えも面白くて時に笑ってしまうものもありました。 私の中での傑作は次のようなものです。 子供の質問:「あの〜弟か妹が欲しいんですけど、どうすれば出来ますか?」 それに答えた無着成恭さん(お坊さんです)の答えがまた面白かった。 「○○クーン(君)、弟か妹が欲しいんだって〜?。ウ〜ン、だったらねお父さんかお母さんから <早く寝なさい>と言われたら言う事をよく聞いて早く寝るんだよ〜」と。 前回の更新でも「こども電話相談室」のことに触れてこう書きました。 「こども電話相談室」でもし私が質問することが出来たるのなら 『国が「放射能」の処理を一般企業に任せているっていうのはどういう事?』と。 本当に素朴な疑問です。 私がTVをあまり観ていないこともありますが、そういうことをTVで論じられているのでしょうか。 さらにこうも聞きたい。 「国の借金が1400兆円あるって聞きますが、それって払えるのでしょうか?」とも。 いつも思う事ですが、「大人は」「政治家」はそう言う問題をいつもはぐらかせているように思います。 とても大事なことなのに。 「国債」を発行して「赤字」を埋め続けていますが、もしこれが一般家庭、また企業だったら考えられないことです。 まず家庭だったら歳入、歳出のバランスを計り「赤字」だったら倹約をするに違いありません。 もちろんお父さんもお母さんも子供も小遣いカットです。 ところが国はすぐ「国債」を発行する。払うつもりなどないかのように。 そんな単純なことを私が子供になりすまし「こども電話相談室」で聞きたいところでした。 |
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HP通信NO.374/ 2015.3.11
今年も神戸のKさんより「いかなご」の「くぎ煮」が届きました。 神戸からの春の便りです。 ここ10数年来、毎年欠かさず送っていただいています。 甘辛く、薄味で、酒の肴には最高、しかもご飯も進みます。 ぴりりとショウガの味も格別です。 毎年お言葉に甘えて送ってもらっている次第です。 これを戴くと「もう春か〜」と思うほどの春の風物味です。 Kさんいつもありがとうございます。
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HP通信NO.373/ 2015.2.28
2月も瞬く間に過ぎ去ったという感じです。 多くの方々からご丁寧なる哀悼の意を頂戴し心より感謝申し上げます。 そのほとんどの方に御礼を申し上げることもなく、大変失礼をしたままで2月も終わりを迎えました。 この場を借り、改めて御礼と失礼のお詫びを申し上げます。 私も叔母も元気で毎日、葬儀も際に頂戴した花に囲まれた母の霊位とともに利府の家で過ごしております。 体調を崩すこともなく、比較的元気に暮らしております。 四十九日までは利府に居りますが、そこから時折上京したりしております。 先週もコンサートのために上京しました。 3月も2度、3度と上京の予定です。 この1週間は確定申告に追われていました。 確定申告をしていますと自然と一年を振り返ることになります。 昨年の1月は父はまだ健在でした。 父が亡くなったのは昨年の2月6日、母が2月9日ですから、 期せずして一年を経てほぼ同じ時期に亡くなったことになります。 人の一生というのはまるで「ドラマ」です。 父と母の一生もまさに「波乱のドラマ」の生涯でした。 その二人の「ドラマ」も終わりました。 そんなことをしみじみと考えたりしております。 利府はまだまだ寒い日が続いています。 利府の家は仙台平野のはずれ、西には宮城蔵王連峰、泉が岳が連なり、広々とした自然の風景なのですが、 やや高台にありますので、風の強い日などは山から降りて来る風、そして仙台平野からやってくる風とがぶつかり合い、 家が揺れるほどです。そして風の音が凄い。 「ビューピュー」と、山奥の厳しい自然のまっただ中にいるようです。 春には鳩山に帰るつもりです。 鳩山の自然が懐かしいです。 そろそろ仕事も少しずつ再開しなくては。 これまでは目の前に積まれた仕事を横目にしておりましたが、そうも言ってられなくなりそうです。 またここで仕事の状況などをお知らせすることになると思います。 まだまだ寒い折、どうか皆さまには御身お大切に。 まずは弔意を頂いた皆さまへのご無沙汰のお詫びと、近況おしらせまで。 |
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HP通信NO.372/ 2015.2.14 皆さまには残念な悲しいご報告をしなければなりません。 母が2月9日早朝、川崎市の病院にて息を引き取りました。 享年86歳でした。 これまでの経緯を簡単に記します。 10年程前に心臓の大動脈瘤が見つかりました。 大きくならなければ問題はないが、大きくなるにつれて「破裂」の危険も増えてくる、という所見でした。 5.6年前、幾分大きくなったので、手術を視野に入れての検査を行ったところ、永年の血管の動脈硬化のために 大きな「リスク」を背負うとの見解を受け、手術は断念せざるを得なくなりました。 これ以上大きくならないようにと祈りつつ、そのときも経過観察ということになりました。 ところが昨年11月の検査で大動脈瘤がかなりの大きさになり「いつ破裂するか危険領域に入った」との医師から通告を受けました。 手術は数年前の検査では断念せざるを得なくなりましたので、 医師からは「お母さんの好きなように平安に暮らすしかかい」と、もはや、最後通達を受けました。 それからの私は鳩山から利府に移住を決め、利府にて同居の叔母とともに、共に暮らすこととしました。 いつ破裂するか不安な日々、毎朝、母が起きて来る姿を見ては毎日安堵する生活が続きました。 母や叔母には詳しい状況を伏せてはいましたが、私が利府に住むこと自体、不思議に思ったのでしょう。 母なりに次第に覚悟を決めていたところがあったようです。叔母もそのようでした。 そんな中、母の現在の症状でも手術を行える日本でも有数の大動脈瘤手術の実績を持つ「川崎幸病院」を見つけたのでした。 新展開に母も叔母も驚きましたが、このまま、ただ「死を待つ」よりは思いきって手術をすることに母も気持ちが移っていきました。 2月2日、その日は父の一周忌で、集まった母の兄弟や友人たちと父を偲んでの会食をしました。 そして一周忌を終えたその足で、皆に見送られて川崎駅前の幸病院に向かったのでした。 母は元気でした。 私と腕を組んで、仙台から東京、川崎、そして病院に入院をしました。 私も母も、そして叔母たちも無事の生還を信じて祈っていました。 5日に手術。 13時間にも亘る長い手術でした。 手術中、経過を医師より報告を受けましたが「大動脈瘤が破裂しかけていた」そうです。 手術自体は問題なかったのでしたが、動脈硬化による血管の老廃、血管内のコレステロールが体内に散らばり、 今後の予測は、厳しいものとも告げられました。 そのときの医師の見解の通り、血管内のコレステロールが「まるで砂状になってシャワーのように」内蔵に降り注ぎ、 術後、幾分容態は安定したかに見えましたが、やはり次第に内蔵の機能が低下し始めました。 8日、急遽、塩釜の叔母に川崎に来てもらい、その翌朝、私と叔母と叔母の長男に見守られつつ母は帰らぬ人となりました。 9日、川崎から利府へと遺体を搬送し、11日通夜、12日に告別式を執り行いました。 棺を花で囲んで、まるでお花畑の中で母を見送りました。 悲しい知らせで申し訳ありません。 前回のホームページでは入院をすることをお知らせしましたので、多くの方からお見舞いを頂いていました。 ご心配をおかけし、温かな励ましのメッセージを頂きました事に深く御礼を申し上げます。 川崎には3週間のホテル滞在を決め、長期に母の様子を見ることにしていました。 きっと手術がうまく行き、一緒に帰れるものと信じてもいました。 母はいつも私の仕事を喜んでいました。 昨年11月のバチカンツアーのことも喜んでくれていました。 さらに母を喜ばせたことの一つに、昨年より交際をし、バチカンにもきてくれたF子さんを紹介できたことです。 F子さんのお母様は詩人の金子静江先生で、私とこれまでいくつかの仕事をご一緒して下さっていました。 静江先生のご紹介で交際が始まったのでした。 昨年暮れ、初めて母に紹介しました。 川崎の病院を探してきてくれたのもF子さんです。 1月の終わりに検査入院をした時も、手術入院の時も、東京在住の彼女はよく世話をしてくれました。 母は同病室の人に「嫁です」と紹介していたようです。 F子さんには二人のお嬢さんがおられます。 その子たちと私が仲良くしていることも母には嬉しい出来事だったようです。 F子さんには「これから憲夫と4人で仲良く暮らしてネ」と話していたとのことです。 私はもちろん、同居の叔母の落胆は言葉にはできないほどです。 叔母とは今でも毎日のように交わす会話です。 「あのままではいつか必ず破裂して命を亡くすのは時間の問題だったし、 手術しなかったら悔いが残るし、どちらにしてもこうなるしかなかったのよね」と。 家で遺体を安置している時も、葬儀の最中も、ずーっと私の音楽をかけてあげていました。 私の音楽が大好きだったものですから・・・・・・。 生前、かかわって下さった皆さまの多大なるご厚情に深く御礼を申し上げると共に、 母のために祈ってくださいますなら、この上ないことです。 私は49日が済むまで利府にて暮らすことといたします。 郵便や宅配は利府へと転送になります。 しばらくは心身の療養に務めますので、どうかご心配なきよう。 突然の訃報の知らせで、大変驚かせしてしまい、申し訳ありません。 まずはご報告まで。 |
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HP通信NO.372/ 2015.1.31
寒暖の差が大きい今日この頃となってきました。 先週、上京しましたらその日はポカポカ陽気で「梅」が咲いたということです。 「梅は咲いたか 桜はまだかいな〜」という時節にはまだちょっと早いですが、春の息吹を少しずつ感じる、そんな季節になりました。 最近、利府の家では本などを片付けています。 学生時代の本もありますので、かなりの数を処分したことになります。 思い出のある本もあります。 母に感謝することのひとつに、本やレコードなどの購入については大変寛容だったことがあります。 裕福な家ではなかったにも関わらず、限度はもちろんありましたが、その範囲でかなり自由にそれらの世界に触れることができました。 当時私が購入するものといえば「レコード、画集、楽譜や本」でした。 先日、昔の本をめくっていましたら、中にメモがありました。 「○○さんに○○を渡す〜〜」というメモ。懐かしい青春の想い出のかけらです。 以前読んだ本に「出世する人の3つの条件」というのがありました。 そのひとつに「どんな話題にもコメントできる人」とありました。 私の家の書棚にはいろんなジャンルの本があります、イヤありました。鳩山にも利府にも。 私の好奇の対象として次第に本も増えていきました。その折々で興味の対象も変化していきました。 「人相学」「手相学」「姓名判断」などの本もあったくらいです。 「どんな話題でもコメントできる人」というのは出世するしないに関わらず、とても大切なことのように思います。 知識というのは「広く浅く」で良いと私は思っています。 「狭く深く」というのでは却って視野を狭(せば)めます。 ついでに「出世する人の3つの条件」の他のふたつは「段取りのできる人」「人の良いところを取り入れられる人」ということらしいです。 これは出世するかどうかだけではなく「魅力的な人間」として必要な要素かもしれません。 「般若心経」の一部にこういうところがあります。 「しんむーけーげー むーけーげーこ むーうーくーふー おんりーいっさいてんどうむそう くきょうねはん〜」(漢字に変換できないので・・・) 意訳すると、 「心を自由にし、物事の見方を偏ったりせずに〜」さらに意訳すると「お経を理解しようと頑(かたくな)になると真理から遠ざかる」というように、 知識は時に「邪魔になる」ということを言っています。 自身が「浅学」故に、意を強くするという訳ではありませんが、 知識を深くすることで「頑固」になったり「我流」になることは大いにあり得ることです。 最近、本はなるべく買わずにおこうと思っていても、ついつい増えてしまいます。 「知識など忘れるがいいサ」「想い出さえ忘れるがいいサ」などと一時期、呪文のように唱えながら鳩山の自然を歩いていたことがありました。 それで尚「忘れ得ないものこそ」自身の血肉なのだと。 知識で物事を計り観るのではなく、自身で感じる世界を広げることこそが「知識」を生きたものにする、とも思います。 余談ですが、利府の家には大学で使った教科書なども随分ありました。 |
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HP通信NO.371/ 2015.1.21
これは利府での写真です。 いつもこんな格好で歩いています。 利府は山も近く、また海にも近いのですが、遠くには宮城蔵王連峰、泉ケ岳という山があり、 天候が移りやすく小雪が舞う日も結構あるのです。 毎日の散歩にはこの格好が最適。 このジャンパー、札幌で買ったものです。ですからとにかく暖かい。 リユックを背負っています。 一度、私とすれ違った元気な(面白そうな)中学生から「ご苦労様!」と言って「敬礼!」をされたことがありました。 思わず吹き出した私でしたが、この近辺でもこんな格好で歩く人がそれだけ珍しいということです。 上の格好で毎日ほぼ8Kmは軽く歩いています。 ここ利府近辺にはおいしいラーメン店がいくつもあり、今日は東方面のどこどこのラーメン店に、 明日は西方面のどこどこのラーメン店などと渡り歩いているうちに、先日の定期検査ではすっかり数値が上昇。 あれだけ、一時、全ての数値が平均内に収まり、医師から「優等生」の誉れを頂いたのでしたが、しばらくは「禁ラーメン」に。 そして本日、塩竃神社の帰り、いつも寄るラーメン店「来々軒」で9日ぶりにラーメンを食べたのでした。 食事の栄養管理というのは難しいものです。 すっかり「板についた」かに思えたのでしたが、次回の検診では「栄養士」さんに再び相談の予約を取りました。 「きちんとやっているつもり・・・・・」がついつい慢性になります。 これは食事に限ったことではありません。 時に見直すことも大切なのですね。 ただ今は、利府に滞在しながらあちらこちらと出かけています。 今週はコールベルの練習で市川に。 今週末は日立市に参ります。 来月は母が神奈川県川崎市の病院で手術を受けることになりましたので、私もしばらくは川崎市に滞在するつもりです。 たまに鳩山にも寄るでしょうが、ずーっとホテル住まいになると思います。 一日の面会時間は12:00〜15:00までですので、それ以外の時間のために仕事の準備はしていくつもりです。 こちらでの生活は午前中2時間、午後も2時間、夜は1時間程度、仕事に向かいます。 勿論散歩の時間も一日の予定に組み込んであります。 夜は母たちとの懇談の後、一人で映画などを観ます。 ちなみに今月に入ってから観た映画は劇場で1作、DVDで17作。 『劇場』 サン・オブザ・ゴット 『DVD』 トキワ荘の青春 コーリング アウトランド ブレイブワン 今宵、フィッツジェラルド劇場で ヤコブへの手紙 ルームメイト 京都太秦物語 大脱出 バビロンの陽光 60歳のラブレター リベンジ・マッチ 鑑定士と顔のない依頼人 ラッシュ/プライドと友情 土竜の唄 潜入捜査官 プリズナーズ クレアモントホテル 人の心は「秋の空」といいますから、その日の気分で見たい映画も異なっています。 |
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HP通信NO.370/ 2015.1.11
利府町・加瀬沼の白鳥。1.2撮影。 加瀬沼は家から歩いて30分ほどのところにある沼です。沼といってもかなり大きな沼です。 沼には鴨や白鳥が、点々と薄氷(うすらい)の上で佇んでいます。 氷の上でさぞかし寒かろう、と思うのですが、中には、気持ち良さそうに寝ているのもいます。 我が家のすぐ下にも小さな沼があって、そこにも白鳥が数羽やってきて「クワックワッ」と時にうるさいくらいです。 利府にての新年も母たちと穏やかな日を過ごしました。 いつもながら新年は「今年も健康第一で・・・」という挨拶が交わされます。 健康はどの人にも気がかりなもので、大切なこと、と誰もが願うことです。 私の若い頃「健全な肉体は健全な精神から」また「健全な精神は健全な肉体から」というスローガンめいたことをよく聞いた記憶があります。 今もその「言葉」は生きているのでしょうか。 本当にその言葉通りです。 こちらに来てからTVを観る時間が多くなりました。 これまで何度もTVの悪口を言っていますので、今更言う気もしませんが、 先に紹介したスローガン「健全な肉体は健全な精神から」それから申しますと、TVは観ている人の気持ちを「苛つかせます」。 イヤ、わざと「苛つかせている」としか思えない。 TVは今や「健全な精神」とは無縁です。(NHKやBSの一部などは例外です。) 今のTVはCMを観せるためだけに作られているようなものです。 そして「ウソ」が多い。 「見出し」に踊らされている感があります。 (前にも何度かご紹介したような気がしますが)昔の見世物小屋で「命の源」という看板の小屋があり、 覗いてみると何とドンブリに山盛りのゴハンがあったということです。 まさしく「命の源」です。 こんな類いはたくさんあります。 例えば「千年前のイタチ」という小屋では「板に血が」塗ってあったものがポツンとあったということです。 「千年前の板に血」というシャレです。 昔の人のユーモアは何と愉快でしょう。 「苛つき」や「ストレス」などは「健康の敵」です。 |
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HP通信NO.370/ 2015.1.1
2015年 皆さま新年お元気でお過ごしですか? 私は喪中の身ですので、新年の賀詞は失礼させていただきます。 本年も宜しくお願い申し上げます。 元日の朝はこちら利府では銀世界でした。 お天気でしたら塩竃神社に初詣に向かうところですが、足下が危ういので今日は静かに「一年の計」に思いを遊ばせようかと思っています。 昨年、父が亡くなったものですから「喪中」なのですが、今は新年の挨拶の折くらいしか「喪中」を意識しなくなりました。 昔(といっても中国2000年以上前)は「三年喪に服す」のが通例でした。 日本でもその習わしがありましたが次第に薄れに薄れ、今は「新年の行事」の時くらいでしょうか、意識するのは。 家内のときは一年の間、仕事もせずにただ鳩山で供養しながら過ごしました。 というより、何も出来ずにボーッとしていた、という方が正確です。 父には申し訳ないのですが、この一年は仕事に明け暮れていました。 四国歩きお遍路をしましたし、バチカンにも行きました。 暮れになって「今年は賀状を書かなくてもいいんだ」と思うと気楽な気分になりました。 でも毎日、仏壇に向かって亡き妻や父の遺影に手を合わせています。 最近、ひとつ分かったことがあります。 供養とは皆さんどのようにお思いでしょうか。 私は最近こう思うようになってきました。 供養とは私の場合、亡き妻や父や、そして先に逝った先人たちに対して 『「私は今こうして生きていますよ」という<姿を見せる>』ことだと。 それは裏を返せば「恥ずかしい生き方は出来ない」ということになります。 四国歩きお遍路をしながらこのことが自然と身体にすっぽりはまった感じがしました。 ですから今年も私は亡き先人たちに対して「今の自分の姿を胸を張って見せれる」年にしたいと思っています。 今年もどうか皆さん厄を払い吉を呼び込んで、良き年となりますように。 新年のご挨拶まで。 2015年1月1日元日 |
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